月岡芳年展@札幌芸術の森美術館2017



c0007388_13575965.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-06-03 23:47 | 展覧会 | Comments(0)

札幌交響楽団第599回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】

1 シューマン ミサ・サクラ ハ短調
2 マーラー アダージェット~交響曲第5番より
3 マーラー 夕映えのなかで~無伴奏合唱のための
4 ドビュッシー 海~3つの交響的素描

シューマンの宗教曲では「レクイエム」は聴いていたが、1は初めて。
というよりもシューマンの宗教曲自体があまりなじみがない。
札響も今回が初演となる。

「シューマンは早くからルネッサンス時代やバロック時代の宗教音楽に興味を持ち
研究を重ねていたが、そうした伝統を踏まえながら、シューマン独特のロマン的な
和声をふんだんに駆使しているのが大きな特徴と言えるだろう。」
(公演パンフから引用)

この作品は全6楽章からなる約45分の大曲だが、確かに親しみやすいと感じた。
それ以上に、今回初来日したラトヴィア放送合唱団(以下「LRC」という。)の
ハーモニーの高さが第1曲「キリエ」から横溢しており、ついに飽きることなく
聞きとおすことができたのは彼らの比重が高かったと言っても過言ではないだろう。

「合唱王国ラトヴィアのトップ合唱団が初来日。ラトヴィア人にとって合唱は身近
かつ大きな存在だ。1873年から5年に1度開かれている国家行事「歌と踊りの祭典」は
1990年の東欧革命でも大きな役割を果たし、バルト三国の同様の行事のひとつとして
ユネスコ無形文化遺産に登録された。言ってみれば日本の「和食」にあたるのが
「合唱」というお国柄。当然水準は高い。その頂点が1940年創設の
「ラトヴィア放送合唱団」だ。男女12人ずつ24人からなるプロ室内合唱団で、
高度なハーモニーの純正さを保ったうえで、ときに大胆にその魂を歌い上げるような
スタイルは感動的。日本の多くの合唱ファンにも熱狂的に受け入れられるはずだ。」
(月刊「ぶらあぼ」より引用)

盛大な拍手にホリガーさんが楽譜を両手で高く掲げるのが印象的。
さらに、鳴りやまない拍手を中断してホリガーさんが英語で挨拶。
聞き取れた中では「first audience」「in Japan」とあったことから、
今回のLRC初来日での初めての聴衆となったらしい。なんと名誉なことよ。


この一曲だけでも足を運んだ価値があったというものだが、
驚きはこれだけにとどまらなかった。

2で札響とLRCが一緒にステージに登場し、LRCは着席。
まず、マーラー交響曲第5番の有名な「アダージェット」が単独で札響の弦楽パートと
ハープだけで演奏される。これだけでも十分なのだが、曲の終盤でLRCが立ち上がり、
スタンバイする。曲を終えてもホリガーさんは腕を下ろさず、引き続きホリガーさんの
指揮でLRCが3を無伴奏で歌いだす。
クリュトゥス・ゴットヴァルトが16声の合唱曲にアレンジした「夕映えのなかで」だ。
ちょうど、前回来演した時のシューベルトの「アンダンテ」と「未完成」をひとつの
作品として聴かせてくれたのと同じ趣と言ってよいだろう。


驚くべきことに、まるで楽器が鳴っているようだ。
一体どこで息継ぎしているの? 本当に発声しているの?
とても人の声とは思えぬ高度に洗練されたハーモニーが大ホールを満たし、圧倒。
鳥肌が立った。安易に使うべきではないと思うが「完璧」という言葉しか見つからない。
前代未聞の場に立ち会えた幸福感が襲ってくる。
本公演の白眉。というか、生涯に渡って忘れられないもののひとつだろう。

ブラボーが飛び、鳴りやまない盛大な拍手が続き、ついにLRCが再び登壇する事態に。
アンコールはなかったが、機会があるなら、ぜひもう一度聞きたいものだ。

4では指揮者ホリガーが絶好調。
色彩豊かなこの作品の真価に初めて触れた味わいが残った。札響も健闘。
改めてホリガーさんの才人ぶりに舌を巻く。

夜公演。7~8割の入りか。空席が実にもったいなかった。
録音はされていたが、放送用か。

c0007388_02412740.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-05-19 23:56 | 音楽 | Comments(0)

札幌交響楽団第598回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】

1 コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲
e ラヴィ・シャンカール作曲 「ラーガー・ピールー」にもとづく即興演奏
2 ホルスト 組曲「惑星」


近年評価の高まっているコルンゴルトだが、1は札響も20年以上ぶりらしい。
ハイフェッツ盤で予習していたが、作品自体が良いとこどりの寄せ集めのような感じで、
ソリストの技巧の高さを聴くような印象が強い作品だなと感じていた。
実際、ソリストのダニエル・ホープも高い技巧で圧倒していた。
拍手に応えたアンコールも何やら珍しい作品だな、と思ったら即興演奏とはね。
確かに「インプロビゼーション」とは聞きとれたけど。


2の「惑星」を生演奏で全曲を聴くのは今回が初めてだった。
札響も20年ぶり4回目とのことだから、今回は希少な機会だった訳だが、
編成も大きく、女声コーラスも必要となればやむを得ないか。


広上さんは第1曲「火星」から札響を鳴らす、鳴らす。
曲が進むにつれ、緩急強弱自在にオケをあやつり、メリハリのある演奏で
楽しくなり自然に顔がほころんでいた。

本作品は作曲当時知られていた地球以外の7つの惑星に標題をつけた組曲だが、
実を言うとCDでは「火星」から順に聴いても聴きどころの第4曲「木星」が
終わるとそれ程注目せずに聞き流すことが多かった。
しかし、今回は意外にも第5曲「土星」、第6曲「天王星」、第7曲「海王星」が
俄然興味深かった。土星の沈鬱な音の移ろい、「魔術師」と副題のついた天王星の
変化自在ぶり。中でも打楽器(首席奏者、副首席奏者ともにブラボー!)が光る。
海王星での札響合唱団女声コーラスの健闘。
やはりこれはライブの力だと思う。これだから生演奏は止められない。
終演後会場からも惜しみない拍手が送られていた。


盛大な拍手に応えて広上さんが、概ね次のような挨拶を最後にされました。

「アンコール曲はありません(笑)。札響とのつきあいは20年以上になります。
今回客演指揮者のお話をいただいた時、単なる客演ではなく友情をつけたのは
札響の活動が広く札幌に、北海道に広まっていくお手伝いをしたいという気持ちを
表したくてつけてもらいました。ここ数年札響を振っていて、世界に通用するだけの力を
つけてきていると感じています。これからも、札響をよろしくお願いいたします(拍手)。」


「友情客演指揮者」を初めて聴いた時は「?」と思いましたが、この挨拶で疑問も氷解。
広上さんには今後もぜひ継続して登場してもらいたいものです。


夜公演。8~9割の入りか。
録音していたが、放送用か。

<蛇足>
余談だが、1でソリストも引っ込み休憩に入る時に、札響のお二人のコンマスが
立ち上がって彼の持ち込んだタブレット型楽譜の画面をのぞき込んでいた。
理由はわからないが、これだけタブレットが普及してくると、
紙の楽譜が当たり前じゃない時代が迫っているんでしょうかね?

c0007388_11261087.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-05-13 11:27 | 音楽 | Comments(0)

「バベルの塔」展プレ・コンサートvol.2@東京都美術館

帰りの飛行機まで時間があったので、当日券で聴いてきました。
「東京・春・音楽祭2017」の演奏会のひとつで、東京都美術館で開催される
「バベルの塔」展にちなみ、作者ブリューゲルが生きていた時代の音楽を
演奏するというものです。
出演は、永田平八(リュート)、吉澤実(リコーダー)のお二人です。
リュートとリコーダーというシンプルな構成だけに、響きや音楽自体は素朴な
ものでした。アンコールには「さくら」を。
東京の桜も満開が過ぎていましたが、まだまだ見頃十分でしたね。
MCを務めた吉澤さんのお話が楽しく約1時間の間、笑いがしょっちゅう会場で
起こっていました。肩の凝らない楽しいひとときでした。

13年目を迎えた「東京・春・音楽祭」ですが、機会があれば一度じっくり聴いて
みたいものです。

【プログラム】

1 ジョスカン・デ・プレ 千々の悲しみ
2 ジョスカン・デ・プレ コオロギは良い歌い手
3 ジョスカン・デ・プレ スカラメッラは戦いに行く
4 ジョスカン・デ・プレ(ナルバエス編) 千々の悲しみ(皇帝の歌)
5 作者不詳  グリーン・スリーブス    



c0007388_10472278.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-05-12 23:15 | 音楽 | Comments(0)

茶碗の中の宇宙@東京国立近代美術館2017

東京国立博物館での「茶の湯」展とほぼ同時期に東京国立近代美術館で開催されて
いるのが、千利休が愛した楽茶碗を創始した楽家代々の作品が一堂に展示されて
いる本展。共通チケットを購入することで片道約30分の無料シャトルバスが利用
できたが、これは便利だった。ただし、1台でピストン運行しているようなので、
それぞれの館での発着時間が決まっている点には注意が必要。

「楽焼は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤を使用せず
手とへらだけで成形する「手捏ね」と呼ばれる方法で成形した後、
750℃ - 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。
また、楽茶碗などとも呼ばれる。狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や
樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した
陶磁器全体を指す。千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みの
ある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。」
(Wikipediaより引用)

会場に入ると初代長次郎が制作した「二彩獅子」が出迎えてくれる。
まるで飛びかからんばかりの、威嚇するかのような動きに満ちた激しさに
圧倒される。楽茶碗の質素な静的な佇まいとの落差には唖然としたが、
初代のそもそもの素質の一端というか、変容ぶりを認識させる手段だったのか。

すぐに展示されていく初代からの楽家の代々の作品には、初代長次郎に代表される
質素な重厚感は代々引き継がれているものの、結構自由な造形を試みていたことが
わかり、これは意外だった。伝統と創意の間での葛藤とも言えよう。
三代道入の黒楽や赤楽に色や紋様で意匠性を打ち出した作品。
九代了入の荒々しく削ることで、まるで彫刻のような効果がある作品。
十四代覚入の色やデザインを自由にした意匠性の強い作品。

そして、現在の十五代吉左衛門へと至るのだが、初代からの一連の作品を展示する場
では感じなかった十五代のアヴァンギャルドな試みは別室の「吉左衛門の世界」で
感じることになる。十四代で拡張された表現をさらに一歩も、二歩も進めた試みが
茶碗にもたらす効果には目を見張るものがある。
しかし、一方で茶碗としての実用性からは離れ、単なる展示品に向かおうとしている
のではないか、との疑問も湧いた。
あのゆがんだ形で手になじむのだろうか。口をつけて飲めるのだろうか。
また、初代の創始した黒楽茶碗に代表される主張を抑えた静謐さとは対極にあるかの
ように作品の主張が強い分、茶の湯の道具としての一体感を喪失してしまいかねない
のではないか、とも感じられた。

琳派の本阿弥光悦や尾形乾山の茶碗や俵屋宗達、尾形光琳の絵も参考出品されていたが、
やはり本阿弥光悦にはただならぬ才能の輝きが感じられる。
古くて新しい、とはまさしく光悦のためにある言葉のようだ。


c0007388_09304073.jpg



[PR]
# by capricciosam | 2017-05-11 23:30 | 展覧会 | Comments(0)

特別展「茶の湯」@東京国立博物館平成館2017

普段、茶道などとは無縁な生活をしているだけに、今回の美術展は少々敷居が高い
かな、と思っていた。しかし、

「茶の湯をテーマにこれほどの名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に
東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、実に37年ぶりとなります。」
(「茶の湯展」HPより引用)

とのことで、興味が湧き足を運んでみたが、あまりの見事さに驚いた。

「12世紀頃、中国で学んだ禅僧によってもたらされた宋時代の新しい喫茶法は、
次第に禅宗寺院や武家などの日本の高貴な人々の間に浸透していきました。
彼らは中国の美術品である「唐物」を用いて茶を喫すること、また室内を飾る
ことでスティタスを示します。その後、16世紀(安土桃山時代)になると、
唐物に加えて日常に使われているもののなかから自分の好みに合った道具を
とりあわせる「佗茶」が千利休により大成されて、茶の湯は天下人から大名、
町衆へより広く普及していきました。このように、日本において茶を喫する
という行為は長井年月をかけて発展し、固有の文化にまで高められてきたのです。」
(「茶の湯展」HPより引用)


茶にまつわる数々の名品により茶の歴史を俯瞰することになったが、
いやはや壮大かつ見事なものである。質量ともに圧倒された。

中でも、昨年新たな国宝の出現かと騒がれた曜変天目茶碗は
現存する3点の国宝曜変天目茶碗の中から「稲葉天目」が出品されていた。


「元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が病に伏せる春日局に下賜した
ことから、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わった。
そのため、「稲葉天目」と呼ばれるようになった。」
(Wikipediaより引用)


見込み全体に拡がる色鮮やかな模様は画像でみた以上の衝撃だった。
黒地に浮かび上がる青みを帯びた多くの斑紋は、宇宙の神秘的な輝きを
想起させられた。

同じフロアのすぐ近くには豊臣秀次が所有していたとされる「油滴天目」も
展示されていたが、茶碗の内外に無数の斑紋が形成されてこちらも息を飲む迫力。
特に、悲運だった秀次由来ということが、なお一層の物語を立ち上がらせるのか。

侘茶を完成した千利休に関する品々も質素で素朴なものが多かったのは
ある程度想像がついたが、愛した品々のうち黒塗手桶水指と黒塗中棗をみて
自分の中の利休像には誤解があったように思った。両品とも素朴であることは
変わりないが、光沢鮮やかに磨き上げられた極上の一品は、表面的な粗野感とは
異なる内面的な美の追求をしていた千利休の姿の一端を伝えるものではないか
と思い至ったが、これは意外だった。

c0007388_23204108.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-04-24 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

「マタイ受難曲」★BCJ@東京オペラシティコンサートホール2017

【プログラム】

1 J.S.バッハ マタイ受難曲

昨年バッハ・コレギウム・ジャパン(以下「BCJ」という)演奏会を聴いた後の
感想記事で、「受難曲を聴かせてもらえたら嬉しいのだが」と記したが、
あの時はあくまでも札幌で、という想定だった。
しかし、BCJの今シーズンブログラムが公表されたところ、5年ぶりに
マタイ受難曲を演奏するという、しかもマタイ受難曲が初演された日の前後で。
驚くと同時に、この機を逃すな、とばかりに急きょ東京で聴くことに決めた。


今回会場で販売されていた公式パンフレットを読んだところ、
藤原一弘氏がおおよそ次のようなことを書かれていた。


「マタイ受難曲の歌詞は、紀元1世紀の「新約聖書」、ルター派協会の讃美歌
「コラール」そしてバッハと同時代に書かれた韻文「自由詩」の3層のテクスト
から構成されている。そして、この3層の歌詞に加え、2つの合唱と2つの
オーケストラという構成が、歌詞における対話と音楽における対話という形で
マタイ受難曲が上演される度に常にイエスの受難と現在を結びつける。」


つまり、3層構造の歌詞と2群編成のオーケストラの重層構造が織りなす
豊かな表現が、約2千年前のイエスの受難があたかも現在目の前で目撃している
かのような思いを聴く者の心に抱かせるということなのだろう。
何故「マタイ受難曲」が現代においても、聴くたびに新鮮に迫ってくるのか
これまで他の解説を読んでもピンとこなかった点を鮮やかに解説しており、
目から鱗が落ちる思いがした。


当夜のBCJの声楽とオケの繊細にして劇的なアンサンブルは
鈴木さんの力強いリードの下、イエスの受難をまさまざと描き切る。絶品。
こんな完成度の高い演奏を名演と呼ばずして如何にとやせん、という気分だった。
特に声楽陣の歌声には毎度のことながら感動させられる。
ソロではエヴァンゲリストのベンヤミン・ブルンスの大ホールの隅々まで届く
明瞭にして深々とした声が圧倒的で、これまで聴いたエヴァンゲリストの中では
最高の感動を残した。有名な「憐れみたまえ、わが神よ」では第Ⅰ群のコンマス
の若松夏美さんがすくっと立ち上がって弾き、ロビン・ブレイズが
よくコントロールされた歌唱を披露したが、ヴァイオリンソロも実に素敵だった。


終演後、「マタイ受難曲は当分聴かなくても十分だ。」とつぶやいたが、
実演としては今夜の感動をしばらく抱きかかえていたい、というのは本音だ。
これは東京まで足を運んで正解だった。


会場の東京オペラシティコンサートホールで聴くのは2回目となる。
1回目は約10年前。大江健三郎氏の講演と武満徹の音楽というプログラムだった。
当時の記事はこちらです。


c0007388_00111380.jpg

[PR]
# by capricciosam | 2017-04-21 00:11 | 音楽 | Comments(0)

今様-昔と今をつなぐ-@渋谷区立松涛美術館2017

「今様(いまよう)』とは、「当世風」「現代的スタイル」といった意味で広く使われて
きた言葉です。本展ではこの言葉をキーワードに、伝統技法に接点を持つ6名の現代
アーティスト(石井亨、木村了子、染谷聡、棚田康司、満田晴穂、山本太郎)を
取り上げ、古くからの美術・工芸品から、彼らが何を受け継ぎ自身の表現として
変容させているのかを探ります。」
(今様展HPより引用)


「伝統技法に接点を持つ」というより伝統技法を身につけた彼らがその技法とともに
完成された様式(という伝統、つまり一種の制限)の中で、いかに飛翔していけるか
という挑戦なのだろう。オリジナル作品を「本歌」ととらえ、それにインスパイア
されて翻案した自分たちの作品が「本歌どり」として、いかに変容させられるか。


例えば山本太郎は琳派の流水紋を様々な意匠で描く。
そして、そこに「空き缶」という現代を仕込む。
「缶花入 銘清涼」という造花の挿した一輪挿しは、よく見ると空き缶に彩色を施した
もの。尾形光琳「紅白梅図屏風」を本歌とした作品では、左右の梅は丹念な模写だが、
真ん中を流れる川は梅に不釣り合いなくらい現代的な赤で、一見コカ・コーラの
デザインかと見まがうばかり。視線を移動していくと、川は上流の缶から流れ出ている
ことに気づき、鑑賞者の心は揺れる。これは「パロディーじゃないか」と。
また、屏風絵「隅田川 桜川」は一見すると単なるモダン風のようにも見えるが、
本歌から由来する含意と作品の破調する部分を重ねあわせると、
単なるパロディーというよりもゾッとするような凄みすら感じさせる。

染谷聡の作品は動物の一見忠実な模倣のように見えるが、どの作品もあちこちが
自ら破綻をきたしており、一種異界のモノ的な要素を放射している。
陶磁器の破損を修理する方法として「金継ぎ」という技法があるが、作品「金継ぎ鹿」
では頭骨のひびを金継ぎしたばかりか、歯の一部を金歯にしてあり、これには思わず
笑ってしまった。シャレがきつい。

木村了子の作品は伝統的な古九谷焼風なのだが、描かれる王子様の趣が案外違和感が
ない。これは意外だった。また「男子楽園図屏風」では、いわゆる草食系男子と
肉食系男子が描かれていたが、草食系男子として描かれている背景が農業の場面
だったことに少々違和感を覚えた。果たして農業男性に肉食的要素はないのだろうか?
表現する「場」として「草食系」から連想して農業を持ち出したいのだろうが、
農業に限らずどんな産業でも支える男子には肉食系と見まがう者も間違いなく存在
すると思うだけに、ややステレオタイプ的な発想だったのではないか。

満田晴穂の作品は基本的にミニチュアなため、細部への極端なこだわりには敬意を
払うものの、単独で作品として評価していくことは素人には難しい。
「円寂」「無為」「晩餐」のようにより可視化しやすいものと組み合わせていく
ことで、作品の存在を浮かび上がらせる手法に活路があるのかもしれない。
ただし、作品が従属的な位置づけとなりやすい恐れがあるのが課題か。

石井亨は西陣織の作品。美人画の部分をクローズアップした「美人画」には惹かれ、
傘やパソコンをちりばめた彩色や構図の妙にはおもしろさを感じたが、
人物描画がパターン化しているのが気になった。


棚田康司の本歌は円空らしい。
会場の中央の空間には男とも女ともつかない少し異様な表情の様々なトルソーが
展示されていた。安定感のある作風ながらも、ひとつの材料から彫りだすという
技法の引力圏から脱し切れていないもどかしさを感じてしまった。


どの作品も伝統技法を駆使して、自由奔放な表現を展開する、
醍醐味に溢れた刺激的な展覧会だった。
ただし、パロディーを肯定するか否かで評価は180度変わる可能性があるように
も思う。

松濤美術館は住宅街にひっそりと佇む。
初めて足を運んだが、鑑賞者も少なく落ち着いてゆっくりと鑑賞できた。


c0007388_22494265.jpg

<追記4.22>記事の一部を追加しました。



[PR]
# by capricciosam | 2017-04-20 23:57 | 展覧会 | Comments(0)