プリンシプルのない日本@新潮文庫

昨日とりあげた本には、異文化コミュニケーションの逸話が
いろいろ取り上げられている。その中のひとつ。

1994年村山首相(当時)がマレーシアを訪問した時に、
マハティール首相(当時)と会談した。
その際、マハティール首相が
「戦争責任に関し謝り続けることは理解できない。それより
日本は国連安保常任理事国になってもらいたい。」
と発言したのに対し、村山首相は何も発言しなかった。
ここは「ノーコメント」とでも言ったのかと思ったら、
どうやらほんとうに無言を通したらしいので、
通訳の方も黙らざるを得なかったようだ。

国内的には「デリケートな話ゆえ、察してくれ」で済む話
なのかもしれないが、国外でのトップ会談で、
果たして沈黙という手段は有効なのか。
やはり、きちんと自らの考えなり、立場なりを説明しないと、
あらぬ誤解を生じさせかねないし、友好親善とはならない
のではないか。
戦後50年経っても、この程度か、と愕然とした。

この例から連想したのが、白州次郎氏である。

氏は敗戦後駐留したGHQとの連絡調整役として、
GHQ相手に卑屈になることなく、主張すべきところを主張し、
「従順ならざる唯一の日本人」
との反応をGHQから引き出された方だ。

白洲夫妻に関する展覧会を偶然覗いてから気になって、
その後氏に関するものをいくつか読んだ。
生前氏の考えをまとめた著作物がなかったのは惜しまれるが、
この本は当時の雑誌に発表したものを中心にまとめたもの。

「西洋人とつきあうには、すべての言動にプリンシプルが
はっきりしていることは絶対に必要である。(略)残念ながら
我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続で
あるように思われる。(略)」

「プリンシプルのない妥協は妥協でなくて、一時しのぎの
ごまかしに過ぎないのだと考える。日本人と議論していると、
その議論のプリンシプルはどこにあるのかわからなくなる
ことがしばしばある。(略)」

さかんに使われている「プリンシプル」とは何か。
日本語の中ではそれなりの訳語はあるのだろうが、
その包含する概念がうまく反映されているのか、どうか、
私にはわからない。
しかし、少なくとも世界の中の一員としてこれからも世界に
存在し続けようとするなら、また100年に一度の経済危機に
直面しているからこそ、40年前に書かれた内容ではあるが、
この言葉は依然重要な示唆を与えているように思われる。
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今年の更新はこれにて終わりです。
今年も駄文におつきあいいただき、ありがとうございます。
良い年をお迎えください。
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by capricciosam | 2008-12-31 09:17 | 読書 | Comments(0)


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