オッコ・カム&ラハティ交響楽団@Kitara2015

【プログラム】

1 シベリウス 交響詩「フィンランディア」作品26
2 シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47
3 シベリウス 交響曲第2番ニ長調 作品43 

"プログラムを見るとシベリウスの定番中の定番曲だから名曲コンサート。
でも、東京で交響曲チクルスが3日間かけて行われることを考えると、
札幌でのシベリウス受容の限界をも示していると言えるのかもしれない。
あまりにも斜に構えた見方か。しかし、興行として集客を考えるなら
凝ったプログラムで空席にする訳にもいかず、やむを得ない面もあるか。
(事実チケットは完売、やはり名曲、定番スタイルは強い)。
また、名曲だからこそ聞く側も耳に馴染みがある以上ハードルも上がり、
いわゆる「受けない」怖さも演奏する側にあるのではないか。
おっと、これはうがちすぎか。"
なんてことをつらつら考えていたら、Kitaraに着いた。

ラハティ響は初めて聞くのだが、指揮者のオッコ・カムさんは
2005年小樽で札響との共演を一度聴いている
また、フィンランドのオケということでは、2001年に
レイフ・セゲルスタム指揮ヘルシンキ・フィルをKitaraで聴いている。
このときはちょうど9.11から4日後で、世界中にテロに対する恐怖と怒りが
渦巻いている最中だった。余談だが、この時レイフ・セゲルスタムさんは
演奏を始める前に曲が終わっても拍手をしないようにと言ったと思うのだが、
なにせ外国語。終曲後に結構な拍手が起きてしまったのは残念だった。
興行側が機転を利かせて急遽通訳してその思いを伝えてほしかったと思う。
閑話休題。いずれもプログラムの1と3は共通。しかも、順番まで。
「フィンランディア」が先で「交響曲第2番」は後。
この2曲はシベリウスの代表曲として広く受容されている証なのだろう。

例えば1の「フィンランディア」は日本的には最後の盛り上げ的にプログラム
されることも度々目にするだけに、プログラム冒頭に置かれると
「えっ、最初から!?」的な驚きが小生にはある。
しかし、2005年の札響との演奏会でオッコ・カムさんは、のめり込みの少ない
推進力のある展開に持ち込み、終わってみると意外感に打たれて
客席に身を沈めたものだ。また、ヘルシンキ・フィルでも、やはり変な思い入れを
排除したような透明な響きで一貫していたように記憶している。
つまり、普段耳にする作曲家や曲の背景を想起させるような情報(情緒?)過多な
演奏とは対極にある、ある意味淡々とした演奏だった。

今回のラハティ響でもオッコ・カムさん指揮ということもあるのだろうが、
こういう基本線は変わらない。それに加えて厳しい自然や荒々しさを想起させる
かのような、逞しく力強いゴツゴツしたオケの響きが新鮮で興味深かった。
これは3の交響曲第2番でも同様で、一体となって燃え上がる見事な
クライマックスを築いていた。

ラハティ響がシベリウス音楽祭のレジデントオーケストラとして活動している
以上、フィンランドでシベリウスの曲に向き合う姿勢の一端を見せられたように
思うとともに、シベリウスの作品に対してこれまで形成されてきた自己のイメージ
に修正を迫られたようにも感じた。
ある意味目からウロコ状態、と言っても過言ではないのだろう。

2のソリストは神尾真由子さん。
神尾さんのソロを聴くのはBBCフィルとのメンデルスゾーン、
札響とのブラームスを経て今回で3回目だが、オケと対峙して一歩も引かず
(時には凌駕するかのような)堂々たるソロを聴かせてくれ圧倒された。
見事な集中力。着実にステップアップされているようで満足度は高い。

沸きに沸いた大ホール。鳴り止まない拍手にアンコールをソリストが1曲、
オケが3曲演奏してくれた。順に

4 エルンスト「魔王」(シューベルトの主題による大奇想曲)

5 シベリウス 悲しいワルツ
6 シベリウス ミュゼット(組曲「クリスティアン2世」より)
7 シベリウス 鶴のいる風景

オケのアンコール3曲目はヘルシンキ・フィルのアンコール曲と同じで、
レイフ・セゲルスタムさんが鶴のように腕を広げて、羽ばたくように
指揮されていたのを思い出した。

<追記>
満席。放送用か記録用か不明だが録音していた。
オッコ・カムさんは、ステージに登場される姿は普通に歩いているのですが、
指揮中はずっとイスに腰掛けていました。腰でもやられたのかな、と心配。

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by capricciosam | 2015-11-23 23:51 | 音楽 | Comments(0)


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