カテゴリ:展覧会( 52 )

宮内庁三の丸尚蔵館

なんとなく存在は知っていたが、強烈に意識したのは昨年鑑賞した「若冲展」だった。
展示のメインとなった「動植彩絵」を所蔵するのが三の丸尚蔵館だった。

「三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類が
平成元年6月,国に寄贈されたのを機に,これら美術品を環境の整った施設で
大切に保存・管理するとともに,調査・研究を行い,併せて一般にも展示公開する
ことを目的として,平成4年9月に皇居東御苑内に建設され,翌年11月3日に開館
しました。」(宮内庁HPより引用)

公開する作品は宮内庁のHPに掲載されるので、これを参考にでかけるのが最も効率的
だろう。今回、残念ながらお目当ての若冲作品はなかったが、作品そのものより
保存状態の良好さが印象に残った。皇居大手門から入ってすぐに位置し、
一階のワンフロアーに展示されているだけなので鑑賞時間は短時間で済む。
東京駅にも近く、すき間時間で立ち寄るには都合が良かった。
しかし、皇居観光のついでに訪れていると思われる方も多くみられるので、
少々騒々しいのはやむを得ないか。

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by capricciosam | 2017-06-15 22:25 | 展覧会 | Comments(0)

「HANGA JUNGLE」展@町田市立国際版画美術館2017

「横尾忠則は1960年代にアンダーグラウンド演劇のポスターをエロスと妖しさが
ただよう総天然色のデザインで制作して以来、グラフィズムによって時代の流行を
つくりだし、日本文化をリードするデザイナーとして注目を浴びました。
それ以後「時の人」としてさまざまなメディアに取り上げられますが、
その一方でHANGAの制作にも積極的に取り組んでいきます。
1982年に「画家宣言」を発した後もペインティングと併行して、版画の枠を超えた
作品を制作し続けています。本展覧会のキーワードは「HANGA」と「JUNGLE」。
世界的に通用する「HANGA」という英単語の使用には、伝統的イメージが付随する
「版画」とは違う、「超版画」であるという意味を含ませました。
また「JUNGLE」は、横尾の表現の多様性とジャングルのイメージを重ね合わせた
キーワードです。直感と衝動によって森羅万象を描いた作品群は、生物の共生によって
多様で複雑な生態系を形成する、原始のジャングルを想起させるでしょう。
本展はこれら2つのキーワードに沿って、横尾忠則のHANGA群をJUNGLEのイメージで
壁面を埋め尽くすように展示、HANGAの群生による驚異の表現世界を出現させることを
目指しています。その空間からは、思考や論理を重視したモダニズムに抗う横尾の
創作姿勢の今日的な意義や、現代版画の未来を予見することさえできることでしょう。」
(町田市立国際版画美術館HPより引用)

<書きかけです>



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by capricciosam | 2017-06-14 23:48 | 展覧会 | Comments(0)

「リアルのゆくえ」展@平塚市立美術館2017

「江戸時代から徐々に招来された西洋画は、その科学的な写実技法が伝統的な
日本の絵画と大きく異なり、当時の人々に衝撃を与えました。高橋由一は
西洋の石版画と邂逅し、その迫真の描写に感動して洋画家を志しました。
彼にとって写実とは、自然や身近なものなど外界に対する清新な感動を伝える
手立てとして機能しました。さらに大正期、岸田劉生は北方ルネサンスの巨匠
たちの「クラシックの美」をめざし卓抜した描写力で写実を極めました。
それは現実を超え出る写実であり「内なる美」の表出として高く評価されています。
劉生および彼の率いる草土社は同時代の青年画家たちに大きな影響をもたらしました。
ここにおいて写実は外界の描写のみならず内面を表出する手段として機能しました。
由一と劉生の事物に対するアプローチは異なりますが、両者とも偽りのない心情を
示すため細部まで写実的に再現する必要があったことに変わりはありません。
その後、写実絵画は時代の変遷とともに、様々な役割を担いました。
また、写実という概念そのものも時代の思潮により変化をきたしました。
それは西洋由来の写実をいかに消化し己のものにするかという意識の表れ
かもしれません。今また細密描写による写実が注目されています。
本展は、移入され150 年を経た写実がどのように変化しまた変化しなかったのか、
日本独自の写実とは何かを作品により検証し、明治から現代までの絵画における
写実のゆくえを追うものです。」(平塚市美術館HPより引用)


数年前に写実を追求する野田弘志さん(以下「野田さん」という。)の存在を知り、
さらに野田さんが中心になって実施されている「存在の美学」展を鑑賞したことで、
改めて写実主義に興味を抱いていた。
「存在の美学」展で現代作家の作品に触れると、その描写力に驚嘆するばかりなのだが、
その一方で写実主義がどのような変遷を経てきたのか、どういう位置づけにあるのか
という次なる興味も湧いていた。

日本における写実の黎明期から現代に至る歴史を俯瞰できる本展が開催されている
ことを知り、会期末ぎりぎりのタイミングだったが、鑑賞できたことは幸いだった。


会場に入ると、すぐに高橋由一「鮭」と磯江毅「鮭-高橋由一へのオマージュ」が
並べられて展示されていた。磯江の作品は3年前の「存在の美学」展でも鑑賞していた
ものだが、実はその時のトークショーで野田さんが高橋由一「鮭」を指して、
全然リアリズムを感じない、(写実を意識したというよりも)たまたま
うまく描けたんだろう、というような指摘をしていた。
写実への心構えや技法が現代の写実主義作家との間には違いがあるという点を指摘した
かったのではないかと推測したのだが、高橋の作品はデティールの追求が甘く、
現代の眼では写実とはとらえにくい側面は確かにあるなと改めて思った。
一方、磯江の作品は鮭の表現がより仔細になり、鮭を古びた板に縛り付けている紐や
そののほつれがより緊張感とリアルさを増幅させて、鑑賞者の絵への感情移入を誘発する。


しかし、同様の題材を用いた作品の並列展示は、単に写実としての優劣をつけるという
ことではなく、黎明期から現代に至る日本における写実の発展を瞬時に理解させよう
という意図なのだろう。
鑑賞者の心に迫る仕掛けだったと思うし、案外、本展の肝だったようにも思う。

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「リアルのゆくえ」展の巡回予定
足利市美術館 6/17~7/30 
碧南市藤井達吉現代美術館 8/8~9/18 
姫路市立美術館 9/23~11/5 


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by capricciosam | 2017-06-12 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

月岡芳年展@札幌芸術の森美術館2017

「幕末を越え、明治の新風を浴びながら、師・国芳譲りの豪快な歴史画、
物語絵、武者絵を得意とした。同じ場面を描いても、国芳は物語の筋を説き、
芳年は登場人物の心の内に迫る。本展は、動乱の時代に惑わされることなく、
しかし、過ぎるほどに自身をみつめて精神病を患ったという、そんな自己の表現を
真摯に追求した絵師、芳年(1839、江戸?1892、東京)を紹介する展覧会である。
質、量ともに世界屈指を誇る西井正氣の芳年コレクションから版木など約150点を
選りすぐり、最後の浮世絵師として、また近代絵画の先駆者として芳年の画業を
振り返る。」(芸術の森美術館HPより引用)

本展を鑑賞しようと思ったのは月岡芳年が歌川国芳の弟子であるということだった。
2年前に鑑賞した歌川国芳は自分の浮世絵に対する見方を変えた衝撃的なものだったが、
その弟子が活躍する頃には江戸から明治に移行したことで、弟子は最後の浮世絵師と
ならざるを得なかったという運命にも興味を惹かれた。

激動する時代に身を置く中で画業を追求した結果として見れば、芳年の境遇には
一抹の同情さえ浮かぶのだが、例えば「残酷絵」は流血も生々しく描いているだけに、
正視し難いものもあるが、師匠譲りの精緻な描写力が力感のある作品にかえている。


西井氏が解説していたが、「残酷絵」は道外で展示すると内容が内容だけに作品のうち
数点しか展示されてこなかったが、今回は落合芳幾との作品と併せ「英名二十八衆句」
全作品が展示されていた。これは北海道のあまりこだわらない気風のせいかもしれないが、
札幌芸術の森美術館の判断には敬意を表したい。

<蛇足>

西井氏曰く。版画は初刷りが高い評価を得るものだが、さらに「ふちの有無」、
「折れの有無」、「汚れの有無」、「虫食いの有無」について評価されて、
折れ、汚れ、虫食いが有る程評価は下がるということだった。
折れは、当時版画をたたんで懐等にしまって運んだことによるためだという。

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by capricciosam | 2017-06-03 23:47 | 展覧会 | Comments(0)

茶碗の中の宇宙@東京国立近代美術館2017

東京国立博物館での「茶の湯」展とほぼ同時期に東京国立近代美術館で開催されて
いるのが、千利休が愛した楽茶碗を創始した楽家代々の作品が一堂に展示されて
いる本展。共通チケットを購入することで片道約30分の無料シャトルバスが利用
できたが、これは便利だった。ただし、1台でピストン運行しているようなので、
それぞれの館での発着時間が決まっている点には注意が必要。

「楽焼は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤を使用せず
手とへらだけで成形する「手捏ね」と呼ばれる方法で成形した後、
750℃ - 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。
また、楽茶碗などとも呼ばれる。狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や
樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した
陶磁器全体を指す。千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みの
ある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。」
(Wikipediaより引用)

会場に入ると初代長次郎が制作した「二彩獅子」が出迎えてくれる。
まるで飛びかからんばかりの、威嚇するかのような動きに満ちた激しさに
圧倒される。楽茶碗の質素な静的な佇まいとの落差には唖然としたが、
初代のそもそもの素質の一端というか、変容ぶりを認識させる手段だったのか。

すぐに展示されていく初代からの楽家の代々の作品には、初代長次郎に代表される
質素な重厚感は代々引き継がれているものの、結構自由な造形を試みていたことが
わかり、これは意外だった。伝統と創意の間での葛藤とも言えよう。
三代道入の黒楽や赤楽に色や紋様で意匠性を打ち出した作品。
九代了入の荒々しく削ることで、まるで彫刻のような効果がある作品。
十四代覚入の色やデザインを自由にした意匠性の強い作品。

そして、現在の十五代吉左衛門へと至るのだが、初代からの一連の作品を展示する場
では感じなかった十五代のアヴァンギャルドな試みは別室の「吉左衛門の世界」で
感じることになる。十四代で拡張された表現をさらに一歩も、二歩も進めた試みが
茶碗にもたらす効果には目を見張るものがある。
しかし、一方で茶碗としての実用性からは離れ、単なる展示品に向かおうとしている
のではないか、との疑問も湧いた。
あのゆがんだ形で手になじむのだろうか。口をつけて飲めるのだろうか。
また、初代の創始した黒楽茶碗に代表される主張を抑えた静謐さとは対極にあるかの
ように作品の主張が強い分、茶の湯の道具としての一体感を喪失してしまいかねない
のではないか、とも感じられた。

琳派の本阿弥光悦や尾形乾山の茶碗や俵屋宗達、尾形光琳の絵も参考出品されていたが、
やはり本阿弥光悦にはただならぬ才能の輝きが感じられる。
古くて新しい、とはまさしく光悦のためにある言葉のようだ。


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by capricciosam | 2017-05-11 23:30 | 展覧会 | Comments(0)

特別展「茶の湯」@東京国立博物館平成館2017

普段、茶道などとは無縁な生活をしているだけに、今回の美術展は少々敷居が高い
かな、と思っていた。しかし、

「茶の湯をテーマにこれほどの名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に
東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、実に37年ぶりとなります。」
(「茶の湯展」HPより引用)

とのことで、興味が湧き足を運んでみたが、あまりの見事さに驚いた。

「12世紀頃、中国で学んだ禅僧によってもたらされた宋時代の新しい喫茶法は、
次第に禅宗寺院や武家などの日本の高貴な人々の間に浸透していきました。
彼らは中国の美術品である「唐物」を用いて茶を喫すること、また室内を飾る
ことでスティタスを示します。その後、16世紀(安土桃山時代)になると、
唐物に加えて日常に使われているもののなかから自分の好みに合った道具を
とりあわせる「佗茶」が千利休により大成されて、茶の湯は天下人から大名、
町衆へより広く普及していきました。このように、日本において茶を喫する
という行為は長井年月をかけて発展し、固有の文化にまで高められてきたのです。」
(「茶の湯展」HPより引用)


茶にまつわる数々の名品により茶の歴史を俯瞰することになったが、
いやはや壮大かつ見事なものである。質量ともに圧倒された。

中でも、昨年新たな国宝の出現かと騒がれた曜変天目茶碗は
現存する3点の国宝曜変天目茶碗の中から「稲葉天目」が出品されていた。


「元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が病に伏せる春日局に下賜した
ことから、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わった。
そのため、「稲葉天目」と呼ばれるようになった。」
(Wikipediaより引用)


見込み全体に拡がる色鮮やかな模様は画像でみた以上の衝撃だった。
黒地に浮かび上がる青みを帯びた多くの斑紋は、宇宙の神秘的な輝きを
想起させられた。

同じフロアのすぐ近くには豊臣秀次が所有していたとされる「油滴天目」も
展示されていたが、茶碗の内外に無数の斑紋が形成されてこちらも息を飲む迫力。
特に、悲運だった秀次由来ということが、なお一層の物語を立ち上がらせるのか。

侘茶を完成した千利休に関する品々も質素で素朴なものが多かったのは
ある程度想像がついたが、愛した品々のうち黒塗手桶水指と黒塗中棗をみて
自分の中の利休像には誤解があったように思った。両品とも素朴であることは
変わりないが、光沢鮮やかに磨き上げられた極上の一品は、表面的な粗野感とは
異なる内面的な美の追求をしていた千利休の姿の一端を伝えるものではないか
と思い至ったが、これは意外だった。

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by capricciosam | 2017-04-24 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

今様-昔と今をつなぐ-@渋谷区立松涛美術館2017

「今様(いまよう)』とは、「当世風」「現代的スタイル」といった意味で広く使われて
きた言葉です。本展ではこの言葉をキーワードに、伝統技法に接点を持つ6名の現代
アーティスト(石井亨、木村了子、染谷聡、棚田康司、満田晴穂、山本太郎)を
取り上げ、古くからの美術・工芸品から、彼らが何を受け継ぎ自身の表現として
変容させているのかを探ります。」
(今様展HPより引用)


「伝統技法に接点を持つ」というより伝統技法を身につけた彼らがその技法とともに
完成された様式(という伝統、つまり一種の制限)の中で、いかに飛翔していけるか
という挑戦なのだろう。オリジナル作品を「本歌」ととらえ、それにインスパイア
されて翻案した自分たちの作品が「本歌どり」として、いかに変容させられるか。


例えば山本太郎は琳派の流水紋を様々な意匠で描く。
そして、そこに「空き缶」という現代を仕込む。
「缶花入 銘清涼」という造花の挿した一輪挿しは、よく見ると空き缶に彩色を施した
もの。尾形光琳「紅白梅図屏風」を本歌とした作品では、左右の梅は丹念な模写だが、
真ん中を流れる川は梅に不釣り合いなくらい現代的な赤で、一見コカ・コーラの
デザインかと見まがうばかり。視線を移動していくと、川は上流の缶から流れ出ている
ことに気づき、鑑賞者の心は揺れる。これは「パロディーじゃないか」と。
また、屏風絵「隅田川 桜川」は一見すると単なるモダン風のようにも見えるが、
本歌から由来する含意と作品の破調する部分を重ねあわせると、
単なるパロディーというよりもゾッとするような凄みすら感じさせる。

染谷聡の作品は動物の一見忠実な模倣のように見えるが、どの作品もあちこちが
自ら破綻をきたしており、一種異界のモノ的な要素を放射している。
陶磁器の破損を修理する方法として「金継ぎ」という技法があるが、作品「金継ぎ鹿」
では頭骨のひびを金継ぎしたばかりか、歯の一部を金歯にしてあり、これには思わず
笑ってしまった。シャレがきつい。

木村了子の作品は伝統的な古九谷焼風なのだが、描かれる王子様の趣が案外違和感が
ない。これは意外だった。また「男子楽園図屏風」では、いわゆる草食系男子と
肉食系男子が描かれていたが、草食系男子として描かれている背景が農業の場面
だったことに少々違和感を覚えた。果たして農業男性に肉食的要素はないのだろうか?
表現する「場」として「草食系」から連想して農業を持ち出したいのだろうが、
農業に限らずどんな産業でも支える男子には肉食系と見まがう者も間違いなく存在
すると思うだけに、ややステレオタイプ的な発想だったのではないか。

満田晴穂の作品は基本的にミニチュアなため、細部への極端なこだわりには敬意を
払うものの、単独で作品として評価していくことは素人には難しい。
「円寂」「無為」「晩餐」のようにより可視化しやすいものと組み合わせていく
ことで、作品の存在を浮かび上がらせる手法に活路があるのかもしれない。
ただし、作品が従属的な位置づけとなりやすい恐れがあるのが課題か。

石井亨は西陣織の作品。美人画の部分をクローズアップした「美人画」には惹かれ、
傘やパソコンをちりばめた彩色や構図の妙にはおもしろさを感じたが、
人物描画がパターン化しているのが気になった。


棚田康司の本歌は円空らしい。
会場の中央の空間には男とも女ともつかない少し異様な表情の様々なトルソーが
展示されていた。安定感のある作風ながらも、ひとつの材料から彫りだすという
技法の引力圏から脱し切れていないもどかしさを感じてしまった。


どの作品も伝統技法を駆使して、自由奔放な表現を展開する、
醍醐味に溢れた刺激的な展覧会だった。
ただし、パロディーを肯定するか否かで評価は180度変わる可能性があるように
も思う。

松濤美術館は住宅街にひっそりと佇む。
初めて足を運んだが、鑑賞者も少なく落ち着いてゆっくりと鑑賞できた。


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<追記4.22>記事の一部を追加しました。



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by capricciosam | 2017-04-20 23:57 | 展覧会 | Comments(0)

ミュシャ展@国立新美術館2017

アルフォンス・ミュシャ(以下「ミュシャ」という)は、

「アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー(略)多くのポスター、
装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの
様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用した
デザインが特徴である。」
(Wikipediaより引用)

とあるように、彼の作品はポスターとして目にしていた。
今だに色褪せぬ個性は現代においても十分魅力を失わないものだと思う。
ところが、本来が画家として出発しているため

「ミュシャは故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティを
テーマにした作品を数多く描きました。その集大成が、50歳で故郷に戻り、晩年
の約16年間を捧げた画家渾身の作品《スラヴ叙事詩》(1912-26年)です。(略)
本展はこの《スラヴ叙事詩》をチェコ国外では世界で初めて、全20点まとめて
公開するものです。プラハ市のために描かれた《スラヴ叙事詩》は、
1960年代以降、モラヴィアのモラフスキー・クルムロフ城にて夏期のみ公開されて
はいたものの、ほとんど人の目に触れることはありませんでした。」
(ミュシャ展HPより引用)

国立新美術館2階会場に一歩入ると「原故郷のスラヴ民族」の巨大な絵が
出迎えてくれる。彼のポスターから連想するミュシャのイメージとはかけ離れている。

「スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。
画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。」
(ミュシャ展HPより引用)

暗い背景に描かれる侵略者とおびえる祖先がスラヴ民族の苦難さを象徴するだけに
ミュシャの愛国者としての側面が容易に想像できる。
他の作品もスラヴ民族の歴史に欠かせぬ場面が巨大なキャンバスに描かれている訳だが、
画面全体が明るいという絵は少なく、絵の一部だけが明るく他はうす暗いという
スポットライト的効果を狙って描かれているものが多い。
例えるならレンブラントの「夜警」だろうか。
例えば「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」は
主役であるはずの皇帝より手前の民衆に視線がいく仕掛けだ。
ミュシャの視点がどこに置かれていたかの証左だろう。

また、作品に対峙すると、ときどき目を見開き凝視してくる視線に気がつくはずだ。
まるで鑑賞者の内面を見透かすかのようなもの問いたげな視線の意味を考え、
一瞬いろいろな思いが浮かんでは消える。
色々な解釈が可能なのだろうが、凝視する人はいずれも民衆であるように思われ、
歴史の中で苦難の道を歩まざるを得なかった民への深い同情と共感があるように思われる。
ポスターで確立されたミュシャらしさとはかけ離れた技法でミュシャは民族への
深い共感を描ききったと言っても過言ではないだろう。

通常の美術展では作品の子細をもっと見ようと鑑賞者が作品に近づくものだが、
こと「スラブ叙事詩」では、その巨大なスケールを鑑賞するために
ほとんどの人が作品から離れて鑑賞するというスタイルをとる。
そのため絵の近くが空き、展示室の真ん中周辺が混雑するという現象が珍しかった。

ミュシャを一躍有名にしたポスター「ジスモンダ」をはじめ堺市からの出品が
多く展示されていて目を引いたが、こういう事情(Wikipediaの「日本との関係」参照)
あったんですね。初めて知りました。

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by capricciosam | 2017-04-18 22:40 | 展覧会 | Comments(0)

有元利夫~10年の絵と譜@札幌芸術の森美術館2016

DENONから発売されていた有田正広さんのCDのジャケットにはある作家の作品
が使われていた。画像は所有する一枚だが、どことなく中世を連想させる女性が
非現実的な空間に佇んでいる。スカート丈が長く足が隠れているため、
果たして地に足がついているのかどうかすらわからない。
一種浮遊しているようにも見える。不思議な絵だな、と思っていた。
そのわざとらしい作りや構えがバロック音楽には不思議とあっていた。
この作家の方はどなたなんだろうとは思ったものの、特に調べることもなかったが、
先日偶然有元利夫さんという方だと判った。
ちょうど札幌芸術の森美術館で回顧展が開催されていたことから足を運んでみた。
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サブタイトルが「10年の絵と譜」とあるが、38歳で早逝したため作家としての
活動は約10年余りと短く、その間の作品が年齢を追って約120点展示されていた。
絵画作品のテーマはCDジャケット同様、非現実的な空間に佇む一人の女性というのは
共通している。それが手を替え品を替え様々なバリエーションで作られている訳だが、
同一テーマの飽くなき追求というと聞こえは良いとは思うが、
どの作品からも何かを訴えようとした気配は感じられない。
むしろ同一素材をいかに表現するかを楽しんでいる風に思えてくる。
つまり、表現することに熱中していて作品を作成するに至ったモチーフが感じられない、
との穿った見方も可能なのかもしれない。そういう点では表層的として片付けられそう
にも思えるが、それにしては、どの作品も何かを触発される不思議な感覚に陥る。
ただ、晩年には作風を変える気配を感じさせた作品も残されていただけに、
もっと長生きしていたら果たしてどんな有元ワールドを見せてくれていたのだろう、
との思いも残った。

作家はまめに日記をつけていたようで、会場にはそれらの断片が所々掲示されていた。
読んでみると、作品を作る時は素材の組み合わせによる偶然性を楽しみ、風化に関心があり、
作品を見て違和感から立ち止まって考えてもらうことを狙っていたというようなことも
書かれてあった。まさしく、作家の術中にまんまとはまってしまった訳だ。

会場にはバロック音楽を愛した作家が作曲した作品も流されていた。
また当日は第17代Kitara専属オルガニストのジョン・ウォルトハウゼンさんによる
チェンバロによるミュージアムコンサートが約60分開催された。
用意されたイスが足りずに立ち見の盛況だった。
演奏された曲は次のとおり。

1 クープラン クラヴサンド曲集 第1巻 第3組曲より5曲
2 有元利夫 RONDO
3 J.S.バッハ パルティータ第4番ニ長調
アンコールに先日米国で起きた悲劇的な銃乱射事件を悼み一曲(曲名不明)。
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<追記6.21>記事の一部を加筆修正しました。


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by capricciosam | 2016-06-19 20:31 | 展覧会 | Comments(0)

若沖展@東京都美術館2016

当初予定になかったが、空前の人気に加え、閉幕間近なことから急遽帰る日に
予定を入れた。(その分、3日分の予定を2日で終えたため、2日目がタイトに
なりました。)前日カラヴァッジョ展に並んでいた時に見た殺到する膨大な
人の数からみて早朝に並ばないと、帰りの飛行機に影響を受けそうだと思い、
当日は午前7時には東京都美術館に到着するよう行動開始。
しかし、すでに美術館横に列は長く伸びており想像以上(トホッ)。
それでも芸術大学奏楽堂方面に曲がる手前で列に並ぶことができました。
8時頃から断続的に列は前に進み、割とスムーズに9時過ぎにはエスカレータ
手前に達しましたが、「入場規制が始まりました。」の無情なお知らせを聴いて
内心焦る。9時15分頃には美術館の入口をくぐり、9時30分過ぎには
入場できました。この時開館時間が約30分早まったとの声を耳にしたのですが、
4時間待ちを覚悟していただけに、2時間30分ならまだましというものでしょうか。

伊藤若冲は近年評価が急速に高まっているが、小生には未知の絵師。

会場入りするとすぐ鹿苑寺の墨による襖絵が展示されていたが、これが見事の一言。
若冲の作品としては色彩豊かな作品がTV等で紹介されていただけに、
予想を越えた出会いとなった。
早くも満足度は高まったが、1階の他作品は激混み状態でなかなか近づけずに鑑賞した。
しかしながら、ある程度の距離からでも若沖作品の凄さが伝わってくる。

次に2階に向かったが、やはり「動植彩絵」30点は壮観だった。
見事な色使いと正確な描写は驚きとともに時空を越えて鑑賞する者の心を打つ。
中でも「群鶏図」と「老松白鳳凰図」は近づくことさえままならない人だかり。
絵の大半に人だかりができていたため、間近で子細に観察できたのは数点だった。
しかし、それだけでも写生力のすごさに圧倒される。
江戸時代にこんな力量を持った人がいたことすら知らなかったが、
不思議なのは同時代や後年の他の画家たちへ影響を及ぼさなかったこと。
やはり、その世間離れした生き方が俗世の時流に乗らなかったためか。

同時に展示されていた「釈迦三尊像」は若冲自身が力を込めて描いたとされているが、
不思議だったのは釈迦と2体の菩薩が同等のサイズで描かれていたこと。
これまでいろいろな機会で観た三尊像は釈迦に比べ菩薩像は比較的小さく
描かれていた印象があるが、何故同じサイズに描いたのだろう。
きっと若冲の見方や考えが反映されていたんだろうが、果たして何が。

また、3階には若冲の収集家として有名な米国人のジョー・プライス氏の
個人収集品も多数展示されていたが、どれも見事な作品だった。
有名な「鳥獣花木図屏風」はあのドットで表現した着想といい、作画といい
いくら目を凝らして見ても不思議。どうしてこんな作品が完成できたんだ。驚き。
プライス氏が若冲と出会った作品も墨絵の掛け軸だったが、
案外シンプルな墨絵こそが若冲の真価(エッセンス)を伝えているのかもしれない、
と改めて思った。
若沖、凄い!

ブームとなった激混み展覧会は普段は避けるのだが、これは選択して正解だった。
もっとゆったりと鑑賞したかったので、今後開催されるならば会期の延長はもちろん、
東京以外への巡回展開催、時間予約制の導入なども検討してもらい、
若冲の美をもっとゆったりと味わう機会を設けてもらいたいと思う。

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<追記6.1>一部加筆、修正しました。


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by capricciosam | 2016-05-31 17:19 | 展覧会 | Comments(0)