カテゴリ:映画( 42 )

椿三十郎@映画リメイク

往年の黒澤映画の名作がリメイクされた。

注目したのはオリジナル脚本を使用したこと。
つまり、すでに過去に定まったものがあり、現代においてそれを
どう解釈し、どう演じるかという点はクラシック演奏と同様だ、ということ。
大抵のリメイクの場合、大雑把なストーリーは同じにしても、
セリフは時代やシチュエーションに応じて変わってしまう。
以前取り上げた「Shall We Dance?」もその例でしょう。
それを、あえて定本となっている脚本を使うのだから、
当然監督や役者の解釈や演技次第によって、同じ作品でもテイストは
大幅に変わってくることは想像するだに難くない。
これはクラシック演奏と変わらないではないか。

見終わって、真っ先に感じたのはオリジナルの秀逸さに一番貢献した
のは、脚本だったんだじゃないかなぁ、ということだった。
やはり、脚本が十分良くできていて今なおおもしろい。
クラシック演奏で言うなら、作曲家の作品自体が時代を超えて
魅力を放っている、ということだった。
だったらどのように演じられても耐えられる、というものだ。

だからと言って、今回のリメイクの出来が悪いとは決して感じなかった。
黒澤作品の三船三十郎に対して、森田作品の織田三十郎は
まったく別の解釈によるテイストの異なる作品として味わえるからだ。
なにやら笑いの多い、コメディタッチにも感じられる、
難しいこと抜きの娯楽作品のような感じ、とでも言えばよいのだろうか。
これは、やはり主役の醸し出す雰囲気の違いが大きい。
コメディタッチと言えば、ベテラン演じる「茶室の三悪人」は
まるで「踊る大捜査線」の「スリー・アミーゴズ」のようでもあり、
なんとなく笑えるし、人質となった「押し入れ侍」もうまかった。

また、前回の三船-仲代に対して今回の織田-豊川の描き方も
過不足なく、これで満足すべき水準に達しているとは思うのだが、
あえて言えば、後者から発する凄みがくすみがちだったことか。
前者の強烈な個性が印象的だったから、なおさらそう感じるのかも
しれない。これは前作と比べられるリメイク作品の不利な点か。

<以下、ちょいとネタバレになりますので、ご注意ください>

それから有名なラストの二人の斬り合いも、今回は視覚的に
見せずに聴覚的に描いており、「オヤ?」と思った。
そう言えば21人斬りもそうだが、このラストも客席後方から
いかにも肉を斬り、血が飛ぶかのような効果音だけで処理されている。
現代の映画館のサラウンド効果をうまく使っているなあ、と感心。
これは、監督のセンス、解釈なんでしょうね。
でも、昨今の時代劇のリアルさも当たり前のように感じていましたので、
これはちょっと意外でした。

それから音楽ですが、原作の佐藤勝さんオリジナルか、と思わせる
ような迫力ある和太鼓を効果的に使っていて、いけましたね。

まあ、クラシック演奏会にも似ているのでしょうが、定本に沿っていながら
実際の指揮者やプレーヤーの解釈や演奏の変化が楽しめるような感じで、
全体に良い仕上りだなぁ、と思いました。
オリジナル絶対主義者でなければ、十分楽しめる作品です。
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by capricciosam | 2007-12-01 20:55 | 映画 | Comments(3)

ダイ・ハード4.0@映画

ダイ・ハードから18年。
ダイ・ハード3から12年。

<以下、ネタバレ的内容を含みますのでご注意ください>

1作目、2作目では、夫婦の離婚の危機を実際の危機が救った
かのように思えたものの、3作目では離婚したことが判明。
そして、4作目では学生にまで成長した娘ルーシーが登場するが、
主人公のジョン・マクレーン刑事は心配のあまり娘のデートを
ぶちこわし、愛する娘に激怒されてしまう。

「おまえはルーシー・マクレーンじゃないか」
「いいえ、私はルーシー・ジェネロよ」

娘にまで拒絶されてしまうダメオヤジぶりが、逆にこのド派手なシリーズを
貫くテーマである夫婦愛や家族愛を明確にする。
「何故こんな目に遭うんだ」
1作目から主人公が発するこのセリフ。
これは己が運の悪さを嘆きつつ、悪党に立ち向かう職業意識だけではない、
自らの崩壊した家庭と、家族への思いが隠されているのではないか、
とチョイと深読み。

今回ダメオヤジが愚直に立ち向かったのは、ハイテクに長けた悪党。
7/4独立記念日にデジタルネットワーク化された全米のインフラを
ハッキングして機能をマヒさせてしまう。
(これを「ファイヤー・セール」投げ売り、とは、へぇーという感じでした)
おなじみの20世紀フォックスのオープニングで、サーチライトが消え、
画面がぶれ、フリーズ気味に消えるという暗示的な演出は楽しい。
悪党曰く
「ジョン、おまえはデジタル時代の鳩時計だ」
高度にハイテク化が進んだ時代に、くたびれたローテクダメオヤジが
かなう訳ないじゃないか、という一見圧倒的不利な状況を
次々打破してしまうのが、このシリーズの醍醐味。
ただ、シリーズものの宿命か、アクションシーンはスケールアップし、
マクレーン刑事のヒーロー度も高くなったような気がする。
その分、1作目に登場した時の裸足のランニングシャツ姿で、
やたら目をむいて立ち向かっていた身の丈サイズのヒーローでは
なくなっている。設定でも年代的に50歳程度(ブルース・ウィリスは52歳)
になるのだろうから、酸いも甘いも知り尽くした「大人」の雰囲気をもった
ヒーローであることは妥当なところなのだが、ただマクレーン刑事には
「スーパーヒーロー」にだけはなってもらいたくない。
やはり、彼はあこがれよりも共感とともに我々を奮い立たせてくれる
「ダメオヤジ」ヒーローであってもらいたい。

そう言えばローテクダメオヤジの象徴に使われていた音楽がCCR。
現代青年のハッカーがうるさそうにボリュームを絞ろうとすると、
マクレーンがボリュームをあげる。
この場面を見て「CCRは今の時代には受けないのかもなぁ…」
(最後もエンディングでCCRが流れていましたね)
ジョン・フォガティの荒削りな野太いヴォーカルを「懐かしい」と感じる、
そっか、オレもローテクダメオヤジの類なんだよなぁ…
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by capricciosam | 2007-07-01 23:12 | 映画 | Comments(14)

五線譜のラブレター@DVD

とんでもニュースで中断したDVDの話です。

先日買い物にでかけて、フラッとおもちゃ売り場に寄った時のことです。
子供が小さい時ならよく寄ったのですが、この頃はとんとご無沙汰です。
映画のDVDを3巻いくらで売っているワゴンが目に入り、買う気もなく
手に取ってみたのですが、「コール・ポーター」の文字が目に入りました。
スタンダード・ナンバーで有名な方ぐらいは知っていましたが、詳しいことは
知りませんでした。どうやらコールポーター夫妻の出会いと別れまでを
描いたようで、ホンモノの歌手が劇中で彼の作品を歌っています。
しかもワゴンの中には同じDVDは見あたらず、これ一枚だけ、その上安い。
思わず衝動買い、です。

この映画は凝った作りになっていて、晩年の、というより最後の時を迎えよう
としているコール・ポーターが、愛妻リンダとの出会いから、その死別までを
劇場でステージを見ながら順次振り返っていく、という構成でした。
ポーター自身は同性愛だったようですが、リンダとは恋いに落ち、結婚にまで
至るという、なんとも理解しにくい気質でした。
でも、リンダもポーターの同性愛を許容し、見事にポーターをプロデュース
していく、というふところの深さが伺われ、それぞれたいした人物だった
のではないか、と今更ながら感心しました。
主役のお二人、ケビン・クラインとアシュレー・ジャドはお似合いの夫婦であり、
また微妙な夫婦関係を好演していた、と思いました。
それに、登場するホンモノの歌手たちもコール・ポーターの有名な作品を
次々に歌っていくのですが、これがゴキゲンなのです。
一種のミュージカル仕立てになっており、楽しめる作品に仕上がっていると
思いました。

2005年の正月公開作品だったらしいのですが、当時はまったくノーマーク。
遅くなりましたが、出会えたことを素直に喜んでいます。
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by capricciosam | 2007-05-30 22:06 | 映画 | Comments(2)

墨攻@映画

実は「墨攻」を知ったのは十数年前のコミックだった。
当時断片的に読んだが、墨家の革離一人で小国の梁城を趙の大軍から守る
という着想の面白さと漫画の描写力に結構楽しめる仕上がりだった。
でも、結末がわからず終いだったのでずっと気にかかっていた。
それで結末を知りたいのと、コミックがどう映像化されたのかを知りたくて
興味津々で観に行った。
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紀元前の古代中国の春秋時代。諸子百家の中で「儒墨」とも言われ、
孔子の儒家と並び称されたにもかかわらず、秦の統一とともに
歴史から忽然と姿が消え、明清時代まで存在が忘れられていた思想家集団。
それが墨家。その思想も資料により断片的にしかわからない。
「兼愛」と「非戦」
兼愛とは、分け隔てなく愛すること。
非戦とは、決して攻め込まないこと。

古代から長い封建制度が続いてきたという薄っぺらな歴史認識
しかない身には、数千年前の古代に現代でも通用する思想が存在した
ことが驚異的。でも、西洋でも哲学家や思想家は古代にすでに存在していた
訳だから、同時代の中国にこのような思想が存在したとて、
別段不思議ではないのかもしれない。

墨家を表すのによく使われるのは「墨守」。
墨守とは故事に由来するが、「頑固に守ること」
「非戦」の持つイメージとは異なり、攻めはしないが、防御は徹底的にやる。
つまり攻め込まれた相手とは存分に戦って、守り抜こうとする訳だ。
「墨攻」は原作者の造語で、
「守りに徹するはずの墨家が、何故攻撃なのか?」
との奇異な感じを抱かせる。しかし、非戦の意味がわかれば納得。
少ない手がかりを元に想像力を駆使した原作者酒見賢一の着眼は素晴らしい。

さて、肝心の映画だが、役者は初めて観る人ばかり。
主役のアンディ・ラウは存在感があり、うまい。
毅然たる敵の大将、卑小な梁城主も存在感がある。
ただ恋物語は原作やコミックにもない映画オリジナルで、
私にはちょいと浮き気味に感じた。
むしろ民衆の動きや群像に比重を置いて、もっと整理しても良かったか、
との思いも残った。ただ、悲恋にしたことで主役の陰影が一層深まった
効果もあった。
原作やコミックは日本、監督や主役は香港、敵の大将は韓国、撮影監督や
音楽は日本、ロケは中国で人民解放軍が協力、という見事な「多国籍映画」。
出来やさぞかし、と高をくくっていたら、とんでもない。楽しめた。
アジアという枠内での複数の国境を越えた映画作り、という地平を
見事に切り開いた、と言っても過言ではないと思う。
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ここからは蛇足です。
今回、映画を観てから原作、コミックの表現が気になり改めて読んでみた。
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驚いたのは原作での登場人物はそのままだとしても、コミック化の段階で
奔放な改訂が行われており、その上映画でも再改訂されていたことだ。
例えば革離は原作では梁適(梁城主の息子)に矢で射られて死ぬのだが、
コミックでは梁適は反発するものの、結局革離の力になる。もちろん、
革離は死なない。映画では、梁適は最初から友好的。
さらに、墨家の獅子身中の虫である薛併は原作では梁城内で革離に
切られて死ぬが、コミックでは秦の動きにあわせて黒幕として暗躍する。
ところが、映画では出てこない。etc
改めて、創作するというのは随分奔放なものだ、と感じた次第です。
でも、原作、コミック、映画どれもそれなりの味わいがあって楽しめます。
ただ、基本的に戦いが主たる舞台ですから、残酷な場面が苦手な方は
コミックは敬遠された方が良いかもしれません。蛇足の蛇足でした。
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by capricciosam | 2007-02-16 23:54 | 映画 | Comments(4)

不都合な真実@映画

映画の冒頭、一枚の地球の写真が映し出される。
宇宙船アポロが撮ったもので、これまでよく目にしたものだ。
白い雲が浮かび、全体に青い地球。
改めて地球とはなんときれいな「惑星」なのだろうと思う。
そこに生きていること自体に感謝したくなる。
その地球の姿はこれからも変わらないものだ、と信じて生きてきた。
少なくとも自分が一生を終えて、子孫の世代になっても。
もちろん、環境破壊が将来危機的事態を招くということは気になっていた。
でも、それはもう少し遠い将来の話、と無理にでも思い込もうとしていた。

<以下、ネタバレ的内容含みますので、ご注意ください>

大統領選敗北で打撃を受けたアル・ゴア氏は、これからの生き方を
模索する中で、若い頃から取り組んできた環境問題に進もうと考える。
氏は米国内外でスライド講演を数え切れないくらいこなして、
人類の唯一絶対の故郷である地球が危機に直面している問題を訴えていく。
深刻なテーマなのに、時にはユーモアもにじませつつ、
真摯な態度を貫き、説得力がある。
映画は氏のその活動を追ったドキュメンタリーであるが、
観終えて、衝撃と感動を覚える、実にヒューマンなものだった。

全地球的問題に取り組むためには、全地球的取り組みが必要であり、
そのアクションとしての「京都議定書」の意義の重大さを指摘する。
そして世界中の多くの国々で批准され、アクションを起こしているのに、
批准していない国が、まだ二カ国あることを指摘する。

「アメリカとオーストラリア」

アメリカは世界でもトップクラスの二酸化炭素排出国なのに、
現在のブッシュ大統領は議定書の批准をしないことを宣言するくらい、
米国の取り組みは遅れている。
州単位での取り組みも始まったようだが、まだまだ少ない。
その意識改革をこのような地道な活動が促しているのだろう。

しかし、地球温暖化の進行が急激に進み、かつ今のライフスタイルが
変わらなければ、少なくとも次世代には我々が享受している環境よりも
劣悪な、生存に適しているかどうかさえも疑わしい環境しか引き継げなくなる
という悲観的見通し(というより緊急警告)がこの映画で提示される訳だが、
観終えて、ここまで事態が深刻だったとは、と正直ショックだった。

地球的規模で人類が直面する問題の深刻さ、巨大さの前では、
映画で取り上げられているゴア氏の活動を、氏の政治的経歴から
色メガネで見るようなことは何ら意味をもたないし、
問題の本質から目をそらすことにしかならないだろう。
氏は、この問題は主義主張を超えた人道的問題、倫理的問題であり、
その解決には一人一人が立ち向かうことが必要である、と訴えている。
つまり、環境をここまで追いやったのが人間の営みなら、それを
解決することも人間がやろう、と訴えているのだ。

原題は「An Inconvenient Truth」
inconvenient はconvenientの反対語です。
convenientの意味は「便利な、都合の良い」
つまり「コンビニ」のコンビニエンスはここに由来します。
コンビニに象徴される、物質的に豊かで便利な生活を続けるためには
莫大なエネルギーの消費、浪費が必要です。
そのライフスタイルを享受し続けることに潜む「危うさ」はないのか。
そんな大上段に構えたことは別にしても、

「個人でこの問題に取り組むには、どこから、どうやって取り組むのか?」

その答えは、この映画の本編が終わったのちに提示されます。
ですから、本編が終わってもすぐに席を立たないで最後までご覧ください。
また、この映画の公式サイトに「take action」として
「自宅で取り組む排出削減」が紹介されています。
別に格段目新しいことがあるとは思いませんが、
やれることがひとつやふたつ、きっと見つかります。
一人の小さな取り組みを継続していきましょう。
私のような老境間近な者とて、寿命がつきるまでの間は
自然環境の劣悪化には付き合わざるを得ないのですが、
それでも寿命の長い若い方に比べれば短いほう。
若い方ならなおさら付き合う時間が長くなります。
劣悪な自然環境で老後を迎えたくないと感じる若い方なら、ぜひ取り組みを。

余談ですが、この映画を観たあとで、
「どうしてゴア氏が大統領に選ばれなかったのだろう?」
と、つくづく残念に思ってしまいました。
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<2.22追記>
米国の有力科学雑誌が「06年に最も影響力のあった政策指導者」に
ゴア氏を選んだとのことだが、むべなるかな、という気持ちを憶える。
政治家が国境を越えた地球規模の課題にこれほど果敢に挑戦している
姿など、かつてお目にかかったことがない。
しかし、これはゴア氏だけの特殊な例ではあってはならないのだろう。
国家レベルはもちろん、市町村レベルにおいてさえ、こと政治を志す人には
「地球温暖化」に関する視点が欠かせないのではないか、必須と言っても
過言ではないような気がする。そんな気がしてならない。
もちろん、地球温暖化は一部の人間だけが取り組めばよい、というものではない
ことはもちろんだ。ゴア氏は受賞講演で次のように発言している。

「私は地球温暖化と言わず、気候クライシス(危機)と呼ぶ。
気候クライシスは科学、政治だけの問題ではなく、個人に至る倫理の問題だ」

「不都合な真実」はアカデミー賞候補のようだが、一方ではゴア氏が
ノーベル平和賞候補という噂もある。さて、どうなるか、注目したい。↓


<2.26追記>
「不都合な真実」が長編ドキュメンタリー賞を受賞しました。
グッゲンハイム監督とともに登壇したゴア氏は、地球環境温暖化について
「政治的ではなく倫理的問題です」
「環境対策はすぐ始められる」
と壇上から呼びかけたそうです。
世界の注目を浴びる授賞式なので、そこでのこの訴えが世界に広まって、
人々のアクションにつながっていくことを期待しています。


<10.13追記>
朝刊にノーベル平和賞受賞との大見出しが載っていました。
我々の存在の母体となる地球の環境が、温暖化によって劣悪化していく
という重大な危機に対して、最も効果的な警鐘を鳴らした人である
ことは間違いない。
同時受賞の国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)とともに
これからもこの問題の解決に向けた取り組みでの牽引役を期待したい。

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by capricciosam | 2007-01-20 23:51 | 映画 | Comments(2)

12人の怒れる男@DVD

「冤罪」と「法廷」で連想したのが「12人の怒れる男」です。
まだ若かった頃、旧作映画がTVでよく放映されていました。
その頃見た一本です。

父親殺しで起訴された少年の裁判が舞台なのですが、
さらにはその狭い別室が主な舞台となります。
暑いので、早く裁判を終えて解放されたい気分が部屋に満ちます。
審判には全員一致が必要です。
審議する12人の陪審員のうち11人は有罪なのですが、
たった一人だけ有罪に疑義を唱えていきます。
有罪の根拠が、単なる先入観や偏見に過ぎないのではないか、と。
「どうして、そんなへんなことを言うのだ!?」
「おまえがへんなこと言うから早く帰れないじゃないか」
激論が戦わされ、ぶつかり合ううちに…。

ちょうど半世紀前の白黒の旧い作品ですが、スキのない構成で、
緊迫度が高く、いまだに法廷サスペンス映画の傑作だと思います。

あと数年のうちにスタートする裁判員制度で、一般の人も
刑事裁判に加わっていくことになります。
「裁く」ということの「重み」を考え、その立場に立つ人はどうあるべきか、
ということを考えるにはふさわしい一本だと思います。
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by capricciosam | 2007-01-15 22:54 | 映画 | Comments(0)

それでもボクはやってない@試写会

試写会会場となった客席からはしわぶきひとつ聞こえない。
もちろん、退席する人とてない。
全員が身じろぎも少なく物音ひとつ立てずに、スクリーンを見つめ続けている。
私とて息を凝らし、次の展開がどうなるか、大いに気になって
2時間余りスクリーンを見続けるだけだった。

<以下、ネタバレ的内容ですので、ご注意ください>

周防正行監督の「Shall we ダンス?」は、日常とは別の知らない世界に
一歩足を踏み入れることで始まる「ワンダーランド」を描いて観る者を
ハラハラドキドキさせ、見終わると心温まる想いが残る素敵な作品だった。
今作品も見知らぬ世界に連れて行ってくれるのは同じなれど、観る者の
心が緊張し、真剣に考えざるを得ない、そういう意味でのワンダーな世界
へと連れて行ってくれるのは、異なる点か。
見終わって、主人公は有罪か、無罪か、とまじめに考えている私。
「もし、わたしが主人公と同じ立場だったら…」
「許せないよ、あんな取調べ!! あんな裁判!!」
義憤に駆られ、思わずそう思ってしまう私。
直球ど真ん中で勝負してきた監督の想いがひしひしと伝わったようです。

日本の刑事裁判での有罪率は99.9%だ、と映画で出てくる。
つまり刑事事件で起訴されたが最後、ほぼまちがいなく有罪となる、ということ。
「そりゃ結構、悪い奴が有罪で何が悪いの」とはじめは思ったが、
こと「冤罪」、つまり濡れ衣を着せられて罰せられようとしている場合には、
話はそうはいかなくなる、ということがわかる。
つまり、いったん起訴されたが最後、たとえ冤罪だろうと、ほぼすべて有罪
という刑事裁判の現状って、果たして、一般人の信頼に足るものなのか。
まして、自分が冤罪でその立場に置かれてしまったら…。
「想像したくもない」というのが正直なところではないか。

この映画では本人がやっていないと主張しているにもかかわらず、
一旦犯人扱いされたら、警察の取調べから始まって、検察の取調べ、
あげくの果てには裁判官まで「有罪」という先入観、偏見で向かってくるので、
結局は刑事裁判でやってもいない罪で有罪にさせられてしまう、という
日本の刑事裁判の暗黒面が描かれている。
警察が犯人とみなした人物に対する初動捜査のズサンさ。
警察から送られたでっち上げの調書を鵜呑みにする検察官の決め付け。
左遷や出世を気にするあまりなのか、有罪にしたがる裁判官。
おまけに、裁判ではことごとく「ウソ」をつく証人。
しかも、本人にとって有利な証拠は一向に採用されず、ひたすら
犯人に仕立て上げられるような証拠のみが採用され、でっち上げられていく。
この映画では「満員電車での痴漢犯罪」で、被害者が直接加害者と
おぼしき人間を捕まえた、というケースになっていたが、例え、
被害者に錯誤の可能性があろうとも、警察、検察、裁判官は斟酌せずに、
被害者の言い分は「正しい」と決め付けてくるんですね。
被害者サイドにとってはこれほど頼もしい相手はいない。
が、しかし、濡れ衣を着せられた加害者サイドにとっては勝ち目のないことは
火を見るよりも明らか、で結局、有罪に。
痴漢は許すべきではないが、是非は客観的に判断すべきことは当たり前だし、
冤罪なら裁判で身の潔白を証明できる、と思っていたので、これが刑事裁判の
現実ならとてもじゃないがかかわりたくもないし、正直ゾッとした。
なんとも危うい実態を見せ付けられました。

裁判員制度に関する法律がH16年5月に公布されて、5年以内には
この制度が実施される予定です。
国民も刑事裁判に参加する制度がスタートする訳ですが、
とすると、刑事裁判の現実に自らも直面する可能性がある訳です。
「自分はそんなの関係ない」としか思っていなかったのですが、
この映画を観て、ちょいと真剣に考えてしまいました。
「自分が冤罪に手を貸す可能性も高いのかな?」と。

「Shall we ダンス?」の周防監督とは全くテイストが異なります。
笑いはクスっ程度です。
生真面目で、重い課題をストレートに突きつけます。
み終わっても、心は暖まらず、むしろ冷え冷えとしてくるかもしれません。
ひょっとしたらウケないかもしれません。
でも、ぐいぐいと引き込まれ、考えさせられ、みせられてしまう作品です。
こういう作品こそちゃんとした意味でウケてほしいな。
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by capricciosam | 2007-01-14 03:09 | 映画 | Comments(6)

007カジノ・ロワイヤル@映画リメイク

好調なシリーズものが、途中で誕生時のエピソードに戻るのは、最近では
「スター・ウォーズ・エピソードⅠ」「バットマン・ビキンズ」にもみられる。
007シリーズも21作目にあって「原点回帰」らしい。
と、いうのも原作者のイアン・フレミングがジェームズ・ボンドをはじめて
登場させたのが「カジノ・ロワイヤル」。
これはシリーズ番外編のパロディ版としてとうの昔に映画化されていた
のは有名な話。版権の関係らしいが、結局全てソニー傘下に収まった
ことで今回のリメイク(と言ってもよいのかな)が実現したようだ。
まあ、その分vaioはじめソニー製品もよく出てくるのだが…。

今回再映画化されたものを観るに当たっては一度原作に
当たっておくのも悪くはないな、と思い読んでみた。
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基本的な構造の核になるル・シッフルとの対決は活かしては
あるものの、冷戦構造でのフランス共産党員の使い込みが
現代のテロリト支援組織の使い込みに置き換えられており、
その辺はうまく時代に合致させて違和感なく観ることができる。
ストーリーもほぼ活かされていた。

<以下はネタバレ的内容です、ご注意ください>

今作は「若きジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」と
宣伝されているが、冒頭からダブル・オー資格を満たしている
ことがわかる。しかし、宣伝で言いたかったのは、真の意味
でのダブル・オーらしさを獲得するに至る、という意味なのだろう。
だからなのか、ボンドの洗練されたクールな面よりも、むしろ
直線的で、荒削りな面を強調していく。なにしろ、ボンドには欠かせない
マティーニさえもシェイクかステーかに、こだわっていない。
これ故に、起用に否定的意見のあった精悍なダニエル・クレイグの
風貌は逆にふさわしいのかもしれない。
また年齢と鍛え上げられた肉体故かアクションシーンもOKだが、
カジノの場面やヴェスパー・リンドとの感情のやりとり等の静的演技も
なかなかなものだった。特に、殺人に立ち会ったリンドがショックのあまり
着衣のまましゃがみこんでシャワーを浴びているのを見て、そばに行き、
自分も同じようにしゃがみこんで抱き寄せながら、リンドの血のついた指を
口に含んで血をとってやるシーン等は、シリーズでは異色な場面では
あったが、印象深いものだった。
男としての色気や艶にはやや欠けるものの、ラストまでボンド役としての
違和感を特に感じなかったのは彼の演技力のせいか。

それから、ヴェスパー・リンドのいわゆる「ボンド・ガール」。
ちょっと暴論かもしれないが、これまでのシリーズではほとんどが
ボンドとは「色恋」の関係にはなるのだが、決して「恋愛」には至らない
立場だったと思う。「愛」の不在、といってもよいかもしれない。
唯一「恋愛」する立場で描いてみせたのが「女王陛下の007」だった。
しかし、今回はダブルオーの立場を捨ててまで一緒になろうとしながら、
結局は、スパイものらしく一種の「裏切り」に由来する悲劇的結末に
終わるのだから、なんとも切ない。
それ故、この悲劇を乗り越えたからこそダブルオーとしての
クールさに凄みが増し、決して本気で恋愛に踏み込もうとしない
のだろう、とひとりで合点していた。
ただし、リンドの死に至る原因と方法は原作とは異なる。

またシリーズものなのに、マニー・ペニーやQは出演しない。
これは、ダブルオーとしてのプレ段階という設定だからなのだろうか。
でも、懐かしい1964年製(これはノーマル仕様)や仕掛けのある
最新型のアストン・マーチンは登場する。
しかも、その仕掛けが秘密兵器ではなく、AED(振動除細動機)。
また、原作では使い込みの原因が売春宿への投資失敗だったのが、
今作では株の暴落前の空売りの失敗。
現代への置き換えが実にうまいなぁ、と感心。

ところで、拷問のシーンはほぼ原作に忠実。たたく道具が違うだけ。
男には耐えられない「急所攻め」ということはすぐにわかる。
男が出産の痛みを共有できないのと同様、あの痛みは女性には
想像できないモノでしょう…。

また、蝶ネクタイ姿のボンドが現れ、お決まりのセリフ
「My name is BOND,JAMES BOND」を言うと、すかさず
ボンドのテーマが流れるシーンは、なんとラスト。
ここでダブルオーとしての真の意味でのボンド誕生を観る者に
強く印象づけて終わる。
まさしく「エピソードⅠ」「ビギンズ」の完成であり、シリーズにつながった訳だ。
今回の監督は私の中では評価の低い「ゴールデン・アイ」と同じだったので、
正直期待していなかった。しかし、今作は比べものにならないくらいの
上出来なのは嬉しい誤算だった。これは脚本が良いからなのかな。

次回作は2008年には公開予定らしく、引き続きD・クレイグで
撮るようだが、シリーズの特徴として段々ハデになっていって、
人間ドラマが希薄化しがちな傾向では、この人間ドラマを描いた
今作でいい味をだした彼がどのように演じていくのか、興味のあるところ。
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by capricciosam | 2006-12-04 02:24 | 映画 | Comments(3)

M★A★S★H

ロバート・アルトマン監督が亡くなられたそうです。
代表作の「M★A★S★H」については以前にも書いたのですが、
皮肉った視線で「戦場の狂気」を見事に描いた作品だと思います。
振り返っても監督の作品はこれぐらいしか見たことがないなぁ
と思ったら実はもう一本ありました。
「ロング・グツトバイ」です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
<追記11.23>
記憶違いでした(汗)
どうやら「さらば愛しき女よ」と混同したようです
という訳で観たのは「M★A★S★H」だけです。訂正いたします。
訂正して読み直してみるとつながりが悪いので、一部削除しました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ところで、「戦場」と言えば、先日C・イーストウッドがTVに出ていました。
第二次世界大戦での硫黄島の戦いについて米国側と日本側のそれぞれから
作品を作ったとのことで、ほぼ同時期に公開されているようです。
「ダーティ・ハリー」での印象があまにも強烈で、その後市長になったことは
知っていましたが、アカデネー賞を2度も獲ったということは寡聞にして
知りませんでした。
TVでは今回の作品で言いたかったのは何か、との問いかけに対して
「戦争には勝者も敗者もいない、ということを描きたかった」
というようなことをおっしゃっていました。
世情も9.11事件、イラク戦争、北朝鮮の最近の動きと考えていくと、
決して楽観できるものではないのですが、戦争が発生しないような
多方面からの努力は今後も続けていってもらいたいものです。

蛇足ですが、この時イーストウッドの吹き替えをやっていたのは、
野沢那智さんのようでした。
「深夜放送」や「アラン・ドロン」を知っている世代としては、
なんとも懐かしい声を久々に聴くことができました。
おいくつになられたんだろうか。
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by capricciosam | 2006-11-22 23:47 | 映画 | Comments(0)

ブラック・ダリア@映画

公開された初日に足を運びましたが、入りはいまいち。
今回足を運んだのは次の四点があったから。

・原作者が「L.A.コンフィデンシャル」と同じ
・監督が「殺しのドレス」のブライアン・デ・パルマ
・「マッチ・ポイント」で印象的だったスカレート・ヨハンソンが出演
・時代設定が戦後のハリウッドでの犯罪

<ネタバレ的内容です、ご注意ください>
映画自体は大きく①猟奇殺人事件と②二人の刑事とヨハンソンの3人の関係
を軸に絡み合いながら展開していきます。
これが伏線を散りばめながら、①と②を行ったりきたりなので、
頭で再構成する作業が必要となり、筋を追うのが少々大変でした。
この辺は原作を読んでいないので、どうなんでしょうか。
また途中のテンポももたつき気味、間延び気味なのに、
逆にラストで一気呵成気味に展開して、アレヨアレヨと解決していきます。
でももつれあった糸が解きほぐれていくこの辺りはうまく引き込まれましたね。
当時の繁栄の裏にある犯罪、退廃、腐食。
設定した時代の雰囲気をうまく伝えています。
ブライアン・デ・パルマ作品としては「殺しのドレス」というよりも
「ミッション・インポッシブル」のような冗長さを感じました。

ところで、どういう訳か最終的にメインとなる①の謎が解決しても
カタルシスを感じないのです。
これは、「L.A.コンフィデンシャル」との比較がヒントになるのでしょうか。
最後に主演の男女(刑事と売春婦、刑事と犯罪人の情婦と似たような間柄)が
結ばれるハッピーエンドは同じながら、「L.A.コンフィデンシャル」では
あの二人へすっかり"入れ込んでいる"自分を感じましたが、
「ブラック・ダリア」ではとうとう何の感慨も湧かずじまい。
「どうしたことか?」
これは、映画内での当の女性たちの「位置づけ」が関係しているのかも。
「ブラック・ダリア」では中盤から後半にかけては女性が①に関係する
ヒラリー・スワンクに重点的になり、最後にまた②に関係する
スカレート・ヨハンソンが登場しても、もともと映画の中でも
中心となる①に絡まず、かつ踏み込んだ描写ではない、という弱さのため、
観ているこちらとしては「L.A.コンフィデンシャル」におけるキム・ベイジンガー
が演じた役柄に対するほどの集中もなければ、共感も起こらない、
というように思いました。
最後のクレジットのcastではヨハンソンが2番目でしたが、やはり主役級は
メインとなる筋に多く露出してくれた方が印象的ですね。
最も①で演じたらどっちにしても殺されちゃって、ハッピーエンドは無理ですね。

恐らく重層的な構成の原作をうまくまとめて、映画としては合格の部類なので
しょうが、どうも「L.A.コンフィデンシャル」ほど心が揺さぶられることなく、
印象としては薄かったですね。
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<蛇足>
レズ・バーのステージで歌われる「ラブ・フォー・セール」はなかなか聞かせました。
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by capricciosam | 2006-10-15 20:28 | 映画 | Comments(2)