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札幌交響楽団第583回定期演奏会@Kitara2015

【プログラム】

1 ベートーヴェン バレエ「プロメテウスの創造物」序曲
2 モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調
3 ショスタコーヴィチ 交響曲第10番ホ短調

今シーズンの札響定期演奏会を眺めていたら、優れた演奏家が指揮をする
企画に目が止まった。9月のカール・ハインツ・ホリガーさんと、
今月のウラディミール・アシュケナージさんである。
オーボエ、ピアノの分野で各々歴史に名を刻まれることは間違いなしの
第一人者であるが、近年指揮活動も活発にされているだけに注目していた。
すでに終えた9月のホリガーさんの感想はこちらです。

アシュケナージさんと札響との共演は1970年以来とのことですが、これは未聴。
kitaraでは2001年、2004年に指揮者として来演して以来とのこと。これも未聴。
(以上、配布された資料による。)
小生としては1992年北海道厚生年金会館でのピアノリサイタル以来だから、
実演に接するのは20年ぶり以上。その間TVでもっぱら○響の音楽監督としての
指揮者としての活動を見ていたにすぎないのだが、正直言って
なんとも大雑把に見える指揮で、よく○響は演奏できるな~、と素人考えで
あっけにとられていた。

そんな指揮ぶりをいよいよ目の当たりにできる訳だが、
1では確かに「TVで見るそのままだー」的なミーハー的驚きはあったものの、
すぐに音楽に耳を傾けることに気持ちを切り替えていた。
1,2ともに指揮者としての個性は特段感じられず、一言で言えば「無難」。
取り立てて心揺さぶられることもなく、淡々と過ぎ去っていった感じで終わった。

しかし、ドラマは最後の3にあった。
今年2回目で、夏のゲルギエフ&PMFオーケストラの熱演が記憶に久しいだけに、
聴く側のハードルはやや高くなる。この作品はショスタコーヴィチ自身が
言ったと言われる「人間の感情と情熱を描いた」と評される暗く、重々しく、
厳しい側面を有するが、第一楽章冒頭から札響各パートが凄い集中力で演奏を
展開していき、しかも途切れることなく最後まで持続したのには少々驚いた。

もちろん、いままで聴いた定期演奏会でもこれ以上の力を傾注をしていたのだ
とは思うのだが、なにしろ演奏される場の孕む緊張感が、
「これまでこんなのあったかー!?」的な驚きの連続で、
こんな演奏にはそうそう出会えないんじゃないか、という驚きが先に立った。
札響各パートは持てる力を発揮することになんら躊躇することなく、
アシュケナージさんの指揮に即応して力量の限りを示していたと
断言しても過言ではないだろう。プロとしての矜持の高さとでも言うべきか。
これほどの凝集度の高い演奏というのは、なかなか出くわすことは難しい。
「一期一会」なる言葉が脳裏に浮かんで仕方なかった。名演。

ソリストの河村尚子さんについては、この方が将来について
どのようなベクトルをお持ちなのか?その点を感じられないまま終わった感が強い。
かといって、演奏がつまらなかった訳ではない。
むしろ、活き活きと演奏されたように感じられる部分も少なからずあったのだが、
果たして彼女の指向性はモーツァルトなのか? 他の作品でも聴いてみたいものだ。
ソリストアンコールは

4 J・S・バッハ(ペトリ編曲) 羊は安らかに草を食む

昼公演。8~9割の客入か。録音されていた。

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<追記11.30>記事の一部について加筆、修正しました。


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by capricciosam | 2015-11-28 22:05 | 音楽 | Comments(0)

オッコ・カム&ラハティ交響楽団@Kitara2015

【プログラム】

1 シベリウス 交響詩「フィンランディア」作品26
2 シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47
3 シベリウス 交響曲第2番ニ長調 作品43 

"プログラムを見るとシベリウスの定番中の定番曲だから名曲コンサート。
でも、東京で交響曲チクルスが3日間かけて行われることを考えると、
札幌でのシベリウス受容の限界をも示していると言えるのかもしれない。
あまりにも斜に構えた見方か。しかし、興行として集客を考えるなら
凝ったプログラムで空席にする訳にもいかず、やむを得ない面もあるか。
(事実チケットは完売、やはり名曲、定番スタイルは強い)。
また、名曲だからこそ聞く側も耳に馴染みがある以上ハードルも上がり、
いわゆる「受けない」怖さも演奏する側にあるのではないか。
おっと、これはうがちすぎか。"
なんてことをつらつら考えていたら、Kitaraに着いた。

ラハティ響は初めて聞くのだが、指揮者のオッコ・カムさんは
2005年小樽で札響との共演を一度聴いている
また、フィンランドのオケということでは、2001年に
レイフ・セゲルスタム指揮ヘルシンキ・フィルをKitaraで聴いている。
このときはちょうど9.11から4日後で、世界中にテロに対する恐怖と怒りが
渦巻いている最中だった。余談だが、この時レイフ・セゲルスタムさんは
演奏を始める前に曲が終わっても拍手をしないようにと言ったと思うのだが、
なにせ外国語。終曲後に結構な拍手が起きてしまったのは残念だった。
興行側が機転を利かせて急遽通訳してその思いを伝えてほしかったと思う。
閑話休題。いずれもプログラムの1と3は共通。しかも、順番まで。
「フィンランディア」が先で「交響曲第2番」は後。
この2曲はシベリウスの代表曲として広く受容されている証なのだろう。

例えば1の「フィンランディア」は日本的には最後の盛り上げ的にプログラム
されることも度々目にするだけに、プログラム冒頭に置かれると
「えっ、最初から!?」的な驚きが小生にはある。
しかし、2005年の札響との演奏会でオッコ・カムさんは、のめり込みの少ない
推進力のある展開に持ち込み、終わってみると意外感に打たれて
客席に身を沈めたものだ。また、ヘルシンキ・フィルでも、やはり変な思い入れを
排除したような透明な響きで一貫していたように記憶している。
つまり、普段耳にする作曲家や曲の背景を想起させるような情報(情緒?)過多な
演奏とは対極にある、ある意味淡々とした演奏だった。

今回のラハティ響でもオッコ・カムさん指揮ということもあるのだろうが、
こういう基本線は変わらない。それに加えて厳しい自然や荒々しさを想起させる
かのような、逞しく力強いゴツゴツしたオケの響きが新鮮で興味深かった。
これは3の交響曲第2番でも同様で、一体となって燃え上がる見事な
クライマックスを築いていた。

ラハティ響がシベリウス音楽祭のレジデントオーケストラとして活動している
以上、フィンランドでシベリウスの曲に向き合う姿勢の一端を見せられたように
思うとともに、シベリウスの作品に対してこれまで形成されてきた自己のイメージ
に修正を迫られたようにも感じた。
ある意味目からウロコ状態、と言っても過言ではないのだろう。

2のソリストは神尾真由子さん。
神尾さんのソロを聴くのはBBCフィルとのメンデルスゾーン、
札響とのブラームスを経て今回で3回目だが、オケと対峙して一歩も引かず
(時には凌駕するかのような)堂々たるソロを聴かせてくれ圧倒された。
見事な集中力。着実にステップアップされているようで満足度は高い。

沸きに沸いた大ホール。鳴り止まない拍手にアンコールをソリストが1曲、
オケが3曲演奏してくれた。順に

4 エルンスト「魔王」(シューベルトの主題による大奇想曲)

5 シベリウス 悲しいワルツ
6 シベリウス ミュゼット(組曲「クリスティアン2世」より)
7 シベリウス 鶴のいる風景

オケのアンコール3曲目はヘルシンキ・フィルのアンコール曲と同じで、
レイフ・セゲルスタムさんが鶴のように腕を広げて、羽ばたくように
指揮されていたのを思い出した。

<追記>
満席。放送用か記録用か不明だが録音していた。
オッコ・カムさんは、ステージに登場される姿は普通に歩いているのですが、
指揮中はずっとイスに腰掛けていました。腰でもやられたのかな、と心配。

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by capricciosam | 2015-11-23 23:51 | 音楽 | Comments(0)

銀座「春画」展@東京・永井画廊2015

小旅行の直前に銀座の永井画廊でも春画展が開催されていることを知り、
「そうそう見られる訳ではないので、時間があればついでに見ていくか。」
くらいの気持ちだったが、春画展を見終わっても、帰りの飛行機までは
時間に余裕があったので、永青文庫を出てそのまま銀座まで足を伸ばした。
画廊故展示スペースはかなり制限される中、画廊の4階、5階、8階を使って
銀座「春画」展は開かれていた。昼も春画である。しかも、銀座。

永青文庫の春画展は春画の世界を知ってもらおうという意図らしく、多くの
作品の紹介に重点を置いたため、春画の全体像を掴むという点においては
申し分なかったが、巻物等の一部だけ、12枚組の数枚だけ等作品そのもの
の展示はスペースの都合上、部分的、限定的にならざるを得なかったようだ。

その点、銀座では点数はさらにぐっと限られるものの、構成が2つに
絞られていた。4階では春画が江戸時代からたびたび禁止されたにもかかわらず、
「公然の秘密」として貴賤を問わず支持され、明治時代以降の近代化で激しく
制限されてきた中でどのように命脈を保ってきたか、を実際の春画・艶本を
展示しつつ解説していく、いわば春画・艶本の具体的な歴史。
この歴史の部分は永青文庫では解説でも軽く触れられていたが、段階を追って
解説している銀座のほうがわかりやすかった。

5階ではデジタル技術で彩色鮮やかに蘇った葛飾北斎の艶本「萬福和合神」が
物語に沿って読み進めることができるようになっていたが、これも永青文庫に
ない試みで、春画・艶本を通読する体験ができたことで春画との距離を縮めた
ように思う。

このように、銀座「春画」展はテーマを絞ることで深掘りされた感じで
永青文庫と併せて鑑賞したことで、より春画の世界への理解が一歩進んだように
思われ、銀座へ足を伸ばして正解だった。

しかしながら、2つの展覧会をみて感じるのは、春画の特異性は美術としての
評価が妥当なのか否かが、やはり大いに迷う代物だな、という位置付けの
難しさだった。将来、性への倫理観自体が変化していく中では、日中に
年齢制限もなく、堂々と鑑賞される時がくるのかもしれないが、
昭和生まれの硬い頭では内容の過激さから「公然の秘密」というよりも
「18歳未満鑑賞禁止の美」程度が妥当な落ち着きどころでは、と思ってしまう。

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<11.15追記>記事の一部を加筆修正しました。


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by capricciosam | 2015-11-12 00:03 | 展覧会 | Comments(0)

春画展@東京・永青文庫2015

2013年にロンドンの大英博物館で春画をテーマとした大規模な展覧会が開催され
大きな反響を呼んだことは知っていたが、こと春画だけにこれまで実物を観る機会は
なかった。古今東西、男女の性器や陰毛を描いた美術品は膨大な数になると思うが、
これらを描くことまでは藝術の範囲として許容され、受容されてきた歴史がある。
先日もモディリアーニの描いた「横たわる裸婦」が美術品として歴代2位の210億円で
落札されたことが報じられたが、この絵でも性器そのものは描かれていないが陰毛は
しっかり描かれている。でも、高価な美術品である。これを猥褻視する人はさすがに
少ないだろう。

しかし、男女の営みの中で性器がどのように機能するか、いわゆる性交という場面
では、人間の営みとしては欠かせないものではあるが、白日の下にさらすと社会秩序
を乱す猥褻なものとしてタブー視され、制限されてきた歴史が続いてきた。
21世紀を迎えても依然おおっぴらなものではないと思う。
江戸時代の名だたる浮世絵師の描いた作品でも、この場面があるがために美術として
愛でるというよりは、性愛の目的のために愛でるという方向に変質せざるを得ない
のが春画の特性であり、春画たる所以なのだろう。
しかし、性交は人間の営みには欠かせぬもの故、厳しく制限されても
春画は支持され、命脈を保ち続けてきたのだろう。春画の持つ強みか。

そんな春画が日本で初めて展覧会として開催されたので、今回の小旅行の仕上げ
として開館に合わせて足を運んでみた。朝から春画、である。開館前から30数人の
列ができていたが、18歳未満入場禁止とはいうものの、老若男女の幅広い層が
観賞しており、中でも若い女性の姿を多く目にしたことは正直驚いた。

「浮世絵春画は人間の性愛を描いた浮世絵(肉筆画、版画、版本)の総称です。江戸時代
を通じて制作された浮世絵版画は(略)大名から庶民まで貴賤を問わず、老若男女に愛好
されました。人間の自然な営みである性を主題とする絵画は、古今東西にわたって広く
存在しますが、その中で日本の浮世絵春画は質量ともに群を抜いており、まさに世界に
誇るべき美の世界を創出しています。」
(以上、展覧会チラシより引用)

展覧会は、プロローグ、肉筆の名品、版画の傑作、豆判の世界、エピローグで
構成されている。
プロローグでは愛を交わす手前の段階、男が女の裾に手を差し入れる、いわば
イントロを描いた作品が展示されている。
「これが春画?」と一瞬侮ったが、次の肉筆の名品からはデフォルメされた性器や
性行為の場面が続き、いやはや圧倒された。
現代の性の乱れを嘆く声もあるが、描かれているものには男女の性行為だけでなく、
男色、複数での性愛行為等も描かれていて、現代でも耳にすることだけに、
性の世界は時空を越えて普遍的なものだな、と妙なところで感心してしまった。

4期に分かれている展示期間のうちの3期目を観賞したが、肉筆の名品では円山応挙も
描いていたことに驚いたことと、「陽物涅槃図」には思わず笑ってしまったこと位
しか印象にない。後者は一見したらよく見る涅槃図なのだが、横たわっているのは
手足のついた男根という擬人化したパロディ。笑いのめす、しゃれっ気というのは
今も昔も変わらないんですね。

次の版画の傑作では歌川国貞、歌川国芳、喜多川歌麿等の彩色された版画は見事な
版画の技巧が凝らされていて、性愛の場面であることを抜きにしても惹きつけるもの
がある。中でも鳥居清長の横長に切り取った4つの画面に様々な男女の性行為場面を
描いている「袖の巻」は、クローズアップされた男女の恍惚とした表情とともに
結合が段階的に深まり、ついには行為を終えた後の余韻に浸る様に至る。
時系列的な流れを描き、全体を描かない大胆なトリミング効果が意表を突いて
見事だった。露骨さを無視すれば見事な作品だ。
また、江戸時代以前は物語性があったものが、江戸時代になり急速に普及していく
と物語性を喪失し、単に性愛の場面を描いたものに変っていった、と解説にあった
が、これは春画の特性としては宜なるかなだろう。

豆判の世界の続きに細川家に伝わる永青文庫所蔵の肉筆作品と版画が展示されていた。
春画展の企画が多くの国内の美術館、博物館で断られた中、ひと肌脱いで細川家所縁
の永青文庫で開催し、おまけに秘蔵の品物を堂々と公開する細川元総理の度量の広さ
には感心した。

これまでどのくらいの入場者数なのか、どのような反響を呼んでいるのか。
興味深いところだが、制限のある中、ひとまず扉をこじ開けた意義はあったと思う。
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<追記11.15>記事の一部を加筆修正しました。
<追記2016.2.7>会期中21万220人の来場者があり、永青文庫としては開設以来最高。
図録も一般的な展覧会の倍以上という約2割の人が購入したとのこと。
また、京都展が京都市細見美術館(京都市左京区)で2/6~4/10開催されるとのこと。
一部展示は入れ替わるものの、18歳未満入場禁止は継続。


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by capricciosam | 2015-11-10 00:18 | 展覧会 | Comments(0)

正倉院展@奈良国立博物館2015

奈良を訪れるのは修学旅行以来。何回か訪れている京都に比べると土地勘がなさすぎるので、
JR奈良駅からは市バスを利用した。開館10分前には到着したが、すでに長蛇の列。
昨日の京都国立博物館の待ち時間を思い出して一瞬覚悟したが、待ち時間もほとんどなく
入場が極めてスムーズだったのは幸いだった。

正倉院については東大寺にあり、校倉作りで、聖武天皇の宝物を中心に収納しているが、
特段美術品ばかりが集められている訳でもない程度の予備知識しかなかったので、
年に一回しか公開されない展覧会ではどんな品々に出会えるのだろう、と楽しみだった。
今回は63件(うち初出陳12件)の宝物が出陳されていた。会場の解説には一回公開されると
原則10年は公開されないとあり、今回で67回目だから、全体はすごい数なんだろうと
配布されている資料をみると、なんと約9000件。
これは生涯の趣味として毎年リピートされる方もいるだろうな、と思った。

まず、聖武天皇の遺愛の品々から展示されていたが、「平螺鈿背八角鏡」には目を奪われた。
きれいな貝や宝石の細工がなされており、唐から伝来したと推定される。当時の唐が愛でた美
なのだろうが、それにしても見事なものだ。しかし、残念なことに鎌倉時代に盗難にあい、
大きく破損し明治時代に修理を受けたことがわかっているらしい。
併せてこの鏡を納める漆の円形箱が展示されていたが、漆皮箱とある。獣の皮を成形して
漆を塗ったものらしいが、これも奈良時代に盛んだったが平安時代には木に漆へと移っていった
らしい。

次の天平の音楽と舞踊のコーナーにはポスターにも使われているぺルシャを起源とする
「紫檀木画槽琵琶」やいろいろな伎楽面が展示されていた。この琵琶の撥面に描かれた絵は
かすれて判別し難いものの、背面の小花模様のこまかな細工には目が釘付けとなった。
また、表面に模様の彫られた蛇紋岩で作られた横笛と縦笛も展示されていたが、戦後すぐに
録音されたこれらの笛の音が交互に流されて、音の天平体験をすることができた。
音自体は薄い響きの素朴な味わいだった。

その他にも当時の為政者と仏教がいかに密接だったかを示す仏具や袈裟が展示されていた。
そのひとつ、聖武天皇の遺愛品のリストである「国家珍宝帳」の筆頭に記載されている
「七条褐色紬袈裟」はインド出身の密教の僧が身にまとったものとのことであるが、
教科書では密教の伝来は空海や最澄によるとされているので、実はもっと早くに密教に触れて
いたのではないか、と想像力をかき立てられた。

また古文書(現代の戸籍に相当するものや依頼文書)が興味深かった。
戸籍に当たるものは楷書で書かれているので「男、女」という文字の他、「妻、妾、弟、妹、
孫、姪」という文字が確認でき、家族という概念が当時から形作られていることがわかった。
また、傑作だったのは、要するに「金を払うから代筆して」とか、「納期に間に合わないから
もう一回納期を延ばして」という内容の古文書で、「当時も今と大して変わらないなー」と
思わず苦笑してしまった。
その他、当時の度量衡の意識が垣間見える装飾の施された「紅牙撥褸尺」や動物の毛を使用した
敷物等興味はつきなかった。

「正倉院はシルクロードの終着点」とも言われるが、今回の展示品だけでも当時のアジアや
奈良時代の暮らしが想像され、とても興味深いものだった。思い切って来て正解だった。
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by capricciosam | 2015-11-08 11:48 | 展覧会 | Comments(0)

琳派-京を彩る@京都国立博物館2015

俵屋宗達や尾形光琳の作品を知ったのはいつ頃だろう。
恐らく義務教育の教科書の口絵からだったのではないかと思う。
ついぞ本物に接することなく過ごしてきたが、今年5月に東京の根津美術館で
尾形光琳の国宝2点を含む、俵屋宗達、鈴木其一等の、いわゆる「琳派」の人たちの
様々な作品を鑑賞できたことは幸いなことだった。その時の感想はこちらです。
この時に「琳派」という言葉によって系譜への理解が始まった訳だが、
その後特に調べもしなかったので、それ以上理解が深まることはなかった。

「江戸幕府の治世が落ち着きを見せ始めた元和元年(1615)。書をはじめ陶芸や
漆芸で名を知られた本阿弥光悦は、徳川家康から洛北鷹峯の地を拝領し、この地
に工芸を家業とする親類縁者を集め、光悦村を営みました。琳派の誕生です。」
(以上、展覧会チラシより引用)

本阿弥光悦が琳派の起源とされていますが、ほぼ同時代に活躍した俵屋宗達とは
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重文)(この作品は現代でも通じる斬新さが素敵)の
ように共同作品も多く残されていることから、この二人が起源と言っても
言いのでしょう。この二人から100年後に尾形光琳が、さらに100年後に酒井抱一が
生きたのですが、琳派は狩野派のように師匠と弟子がいて脈々と続いた訳ではなく、
断続的に継承されてきたという特徴があります。なのに何故派が形成されるのか。
この辺が不思議だったのですが、会場の「第4章 かたちを受け継ぐ」の解説を
読んで納得できました。

「世代を隔て継承されたため、直接の師弟関係を持たず、芸術家たちが自らの
経験の中で出会い、選び取ることによって受け継がれてきた琳派の流れ。その
姿勢を端的に示すのが模写という行為である。(略)私淑という形で受け継がれた
琳派にとって、模写はすなわち琳派に加わることの意思表明でもあった。」

先達の優れた作品を模写することで時代を経て琳派が興隆するとともに、
同一題名の作品が複数現在まで伝わっている要因になるという訳です。
この典型例が有名な「風神雷神図屏風」です。

作者の活躍した時代から言って、オリジナルは俵屋宗達であり、尾形光琳、
酒井抱一の順で模写したことになる。会場で3つの作品を何度も見比べてみたが、
やはり宗達作品の大胆な構図と躍動感あふれる筆致にはオリジナルの持つ迫力が
感じられた。光琳作品は実に丁寧な模写だとは思うものの、宗達作品では画面
からはみ出して描かれていた雷神の太鼓の輪や風神の風をはらんだ布が全て
画面内に収まり、こじんまりとした印象に変わる。さらに、抱一作品は
光琳作品の模写、すなわち模写の模写のため、オリジナルからなお一層離れ
線の弱さ流麗さが目立ち、画家の個性がより前面に出てくる印象となる。
一見同じ作品のように見えながら絵師の個性の違いがわかり興味深かった。

この他にも見応えのある作品が多く展示されていたので、時間があれば
ゆっくりと鑑賞したかったのだが、当日新千歳空港から神戸空港に飛んで、
それから向かったので到着したら太陽も沈もうかという時間。
おまけに90分待ち(結局45分待ちで済んだが、大幅時間ロス)だったから
閉館ギリギリまで粘って鑑賞してきたのは言うまでもない。
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by capricciosam | 2015-11-06 23:41 | 展覧会 | Comments(2)