茶碗の中の宇宙@東京国立近代美術館2017

東京国立博物館での「茶の湯」展とほぼ同時期に東京国立近代美術館で開催されて
いるのが、千利休が愛した楽茶碗を創始した楽家代々の作品が一堂に展示されて
いる本展。共通チケットを購入することで片道約30分の無料シャトルバスが利用
できたが、これは便利だった。ただし、1台でピストン運行しているようなので、
それぞれの館での発着時間が決まっている点には注意が必要。

「楽焼は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤を使用せず
手とへらだけで成形する「手捏ね」と呼ばれる方法で成形した後、
750℃ - 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。
また、楽茶碗などとも呼ばれる。狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や
樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した
陶磁器全体を指す。千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みの
ある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。」
(Wikipediaより引用)

会場に入ると初代長次郎が制作した「二彩獅子」が出迎えてくれる。
まるで飛びかからんばかりの、威嚇するかのような動きに満ちた激しさに
圧倒される。楽茶碗の質素な静的な佇まいとの落差には唖然としたが、
初代のそもそもの素質の一端というか、変容ぶりを認識させる手段だったのか。

すぐに展示されていく初代からの楽家の代々の作品には、初代長次郎に代表される
質素な重厚感は代々引き継がれているものの、結構自由な造形を試みていたことが
わかり、これは意外だった。伝統と創意の間での葛藤とも言えよう。
三代道入の黒楽や赤楽に色や紋様で意匠性を打ち出した作品。
九代了入の荒々しく削ることで、まるで彫刻のような効果がある作品。
十四代覚入の色やデザインを自由にした意匠性の強い作品。

そして、現在の十五代吉左衛門へと至るのだが、初代からの一連の作品を展示する場
では感じなかった十五代のアヴァンギャルドな試みは別室の「吉左衛門の世界」で
感じることになる。十四代で拡張された表現をさらに一歩も、二歩も進めた試みが
茶碗にもたらす効果には目を見張るものがある。
しかし、一方で茶碗としての実用性からは離れ、単なる展示品に向かおうとしている
のではないか、との疑問も湧いた。
あのゆがんだ形で手になじむのだろうか。口をつけて飲めるのだろうか。
また、初代の創始した黒楽茶碗に代表される主張を抑えた静謐さとは対極にあるかの
ように作品の主張が強い分、茶の湯の道具としての一体感を喪失してしまいかねない
のではないか、とも感じられた。

琳派の本阿弥光悦や尾形乾山の茶碗や俵屋宗達、尾形光琳の絵も参考出品されていたが、
やはり本阿弥光悦にはただならぬ才能の輝きが感じられる。
古くて新しい、とはまさしく光悦のためにある言葉のようだ。


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# by capricciosam | 2017-05-11 23:30 | 展覧会 | Comments(0)

特別展「茶の湯」@東京国立博物館平成館2017

普段、茶道などとは無縁な生活をしているだけに、今回の美術展は少々敷居が高い
かな、と思っていた。しかし、

「茶の湯をテーマにこれほどの名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に
東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、実に37年ぶりとなります。」
(「茶の湯展」HPより引用)

とのことで、興味が湧き足を運んでみたが、あまりの見事さに驚いた。

「12世紀頃、中国で学んだ禅僧によってもたらされた宋時代の新しい喫茶法は、
次第に禅宗寺院や武家などの日本の高貴な人々の間に浸透していきました。
彼らは中国の美術品である「唐物」を用いて茶を喫すること、また室内を飾る
ことでスティタスを示します。その後、16世紀(安土桃山時代)になると、
唐物に加えて日常に使われているもののなかから自分の好みに合った道具を
とりあわせる「佗茶」が千利休により大成されて、茶の湯は天下人から大名、
町衆へより広く普及していきました。このように、日本において茶を喫する
という行為は長井年月をかけて発展し、固有の文化にまで高められてきたのです。」
(「茶の湯展」HPより引用)


茶にまつわる数々の名品により茶の歴史を俯瞰することになったが、
いやはや壮大かつ見事なものである。質量ともに圧倒された。

中でも、昨年新たな国宝の出現かと騒がれた曜変天目茶碗は
現存する3点の国宝曜変天目茶碗の中から「稲葉天目」が出品されていた。


「元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が病に伏せる春日局に下賜した
ことから、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わった。
そのため、「稲葉天目」と呼ばれるようになった。」
(Wikipediaより引用)


見込み全体に拡がる色鮮やかな模様は画像でみた以上の衝撃だった。
黒地に浮かび上がる青みを帯びた多くの斑紋は、宇宙の神秘的な輝きを
想起させられた。

同じフロアのすぐ近くには豊臣秀次が所有していたとされる「油滴天目」も
展示されていたが、茶碗の内外に無数の斑紋が形成されてこちらも息を飲む迫力。
特に、悲運だった秀次由来ということが、なお一層の物語を立ち上がらせるのか。

侘茶を完成した千利休に関する品々も質素で素朴なものが多かったのは
ある程度想像がついたが、愛した品々のうち黒塗手桶水指と黒塗中棗をみて
自分の中の利休像には誤解があったように思った。両品とも素朴であることは
変わりないが、光沢鮮やかに磨き上げられた極上の一品は、表面的な粗野感とは
異なる内面的な美の追求をしていた千利休の姿の一端を伝えるものではないか
と思い至ったが、これは意外だった。

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# by capricciosam | 2017-04-24 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

「マタイ受難曲」★BCJ@東京オペラシティコンサートホール2017

【プログラム】

1 J.S.バッハ マタイ受難曲

昨年バッハ・コレギウム・ジャパン(以下「BCJ」という)演奏会を聴いた後の
感想記事で、「受難曲を聴かせてもらえたら嬉しいのだが」と記したが、
あの時はあくまでも札幌で、という想定だった。
しかし、BCJの今シーズンブログラムが公表されたところ、5年ぶりに
マタイ受難曲を演奏するという、しかもマタイ受難曲が初演された日の前後で。
驚くと同時に、この機を逃すな、とばかりに急きょ東京で聴くことに決めた。


今回会場で販売されていた公式パンフレットを読んだところ、
藤原一弘氏がおおよそ次のようなことを書かれていた。


「マタイ受難曲の歌詞は、紀元1世紀の「新約聖書」、ルター派協会の讃美歌
「コラール」そしてバッハと同時代に書かれた韻文「自由詩」の3層のテクスト
から構成されている。そして、この3層の歌詞に加え、2つの合唱と2つの
オーケストラという構成が、歌詞における対話と音楽における対話という形で
マタイ受難曲が上演される度に常にイエスの受難と現在を結びつける。」


つまり、3層構造の歌詞と2群編成のオーケストラの重層構造が織りなす
豊かな表現が、約2千年前のイエスの受難があたかも現在目の前で目撃している
かのような思いを聴く者の心に抱かせるということなのだろう。
何故「マタイ受難曲」が現代においても、聴くたびに新鮮に迫ってくるのか
これまで他の解説を読んでもピンとこなかった点を鮮やかに解説しており、
目から鱗が落ちる思いがした。


当夜のBCJの声楽とオケの繊細にして劇的なアンサンブルは
鈴木さんの力強いリードの下、イエスの受難をまさまざと描き切る。絶品。
こんな完成度の高い演奏を名演と呼ばずして如何にとやせん、という気分だった。
特に声楽陣の歌声には毎度のことながら感動させられる。
ソロではエヴァンゲリストのベンヤミン・ブルンスの大ホールの隅々まで届く
明瞭にして深々とした声が圧倒的で、これまで聴いたエヴァンゲリストの中では
最高の感動を残した。有名な「憐れみたまえ、わが神よ」では第Ⅰ群のコンマス
の若松夏美さんがすくっと立ち上がって弾き、ロビン・ブレイズが
よくコントロールされた歌唱を披露したが、ヴァイオリンソロも実に素敵だった。


終演後、「マタイ受難曲は当分聴かなくても十分だ。」とつぶやいたが、
実演としては今夜の感動をしばらく抱きかかえていたい、というのは本音だ。
これは東京まで足を運んで正解だった。


会場の東京オペラシティコンサートホールで聴くのは2回目となる。
1回目は約10年前。大江健三郎氏の講演と武満徹の音楽というプログラムだった。
当時の記事はこちらです。


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# by capricciosam | 2017-04-21 00:11 | 音楽 | Comments(0)

今様-昔と今をつなぐ-@渋谷区立松涛美術館2017

「今様(いまよう)』とは、「当世風」「現代的スタイル」といった意味で広く使われて
きた言葉です。本展ではこの言葉をキーワードに、伝統技法に接点を持つ6名の現代
アーティスト(石井亨、木村了子、染谷聡、棚田康司、満田晴穂、山本太郎)を
取り上げ、古くからの美術・工芸品から、彼らが何を受け継ぎ自身の表現として
変容させているのかを探ります。」
(今様展HPより引用)


「伝統技法に接点を持つ」というより伝統技法を身につけた彼らがその技法とともに
完成された様式(という伝統、つまり一種の制限)の中で、いかに飛翔していけるか
という挑戦なのだろう。オリジナル作品を「本歌」ととらえ、それにインスパイア
されて翻案した自分たちの作品が「本歌どり」として、いかに変容させられるか。


例えば山本太郎は琳派の流水紋を様々な意匠で描く。
そして、そこに「空き缶」という現代を仕込む。
「缶花入 銘清涼」という造花の挿した一輪挿しは、よく見ると空き缶に彩色を施した
もの。尾形光琳「紅白梅図屏風」を本歌とした作品では、左右の梅は丹念な模写だが、
真ん中を流れる川は梅に不釣り合いなくらい現代的な赤で、一見コカ・コーラの
デザインかと見まがうばかり。視線を移動していくと、川は上流の缶から流れ出ている
ことに気づき、鑑賞者の心は揺れる。これは「パロディーじゃないか」と。
また、屏風絵「隅田川 桜川」は一見すると単なるモダン風のようにも見えるが、
本歌から由来する含意と作品の破調する部分を重ねあわせると、
単なるパロディーというよりもゾッとするような凄みすら感じさせる。

染谷聡の作品は動物の一見忠実な模倣のように見えるが、どの作品もあちこちが
自ら破綻をきたしており、一種異界のモノ的な要素を放射している。
陶磁器の破損を修理する方法として「金継ぎ」という技法があるが、作品「金継ぎ鹿」
では頭骨のひびを金継ぎしたばかりか、歯の一部を金歯にしてあり、これには思わず
笑ってしまった。シャレがきつい。

木村了子の作品は伝統的な古九谷焼風なのだが、描かれる王子様の趣が案外違和感が
ない。これは意外だった。また「男子楽園図屏風」では、いわゆる草食系男子と
肉食系男子が描かれていたが、草食系男子として描かれている背景が農業の場面
だったことに少々違和感を覚えた。果たして農業男性に肉食的要素はないのだろうか?
表現する「場」として「草食系」から連想して農業を持ち出したいのだろうが、
農業に限らずどんな産業でも支える男子には肉食系と見まがう者も間違いなく存在
すると思うだけに、ややステレオタイプ的な発想だったのではないか。

満田晴穂の作品は基本的にミニチュアなため、細部への極端なこだわりには敬意を
払うものの、単独で作品として評価していくことは素人には難しい。
「円寂」「無為」「晩餐」のようにより可視化しやすいものと組み合わせていく
ことで、作品の存在を浮かび上がらせる手法に活路があるのかもしれない。
ただし、作品が従属的な位置づけとなりやすい恐れがあるのが課題か。

石井亨は西陣織の作品。美人画の部分をクローズアップした「美人画」には惹かれ、
傘やパソコンをちりばめた彩色や構図の妙にはおもしろさを感じたが、
人物描画がパターン化しているのが気になった。


棚田康司の本歌は円空らしい。
会場の中央の空間には男とも女ともつかない少し異様な表情の様々なトルソーが
展示されていた。安定感のある作風ながらも、ひとつの材料から彫りだすという
技法の引力圏から脱し切れていないもどかしさを感じてしまった。


どの作品も伝統技法を駆使して、自由奔放な表現を展開する、
醍醐味に溢れた刺激的な展覧会だった。
ただし、パロディーを肯定するか否かで評価は180度変わる可能性があるように
も思う。

松濤美術館は住宅街にひっそりと佇む。
初めて足を運んだが、鑑賞者も少なく落ち着いてゆっくりと鑑賞できた。


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<追記4.22>記事の一部を追加しました。



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# by capricciosam | 2017-04-20 23:57 | 展覧会 | Comments(0)

ミュシャ展@国立新美術館2017

アルフォンス・ミュシャ(以下「ミュシャ」という)は、

「アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー(略)多くのポスター、
装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの
様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用した
デザインが特徴である。」
(Wikipediaより引用)

とあるように、彼の作品はポスターとして目にしていた。
今だに色褪せぬ個性は現代においても十分魅力を失わないものだと思う。
ところが、本来が画家として出発しているため

「ミュシャは故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティを
テーマにした作品を数多く描きました。その集大成が、50歳で故郷に戻り、晩年
の約16年間を捧げた画家渾身の作品《スラヴ叙事詩》(1912-26年)です。(略)
本展はこの《スラヴ叙事詩》をチェコ国外では世界で初めて、全20点まとめて
公開するものです。プラハ市のために描かれた《スラヴ叙事詩》は、
1960年代以降、モラヴィアのモラフスキー・クルムロフ城にて夏期のみ公開されて
はいたものの、ほとんど人の目に触れることはありませんでした。」
(ミュシャ展HPより引用)

国立新美術館2階会場に一歩入ると「原故郷のスラヴ民族」の巨大な絵が
出迎えてくれる。彼のポスターから連想するミュシャのイメージとはかけ離れている。

「スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。
画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。」
(ミュシャ展HPより引用)

暗い背景に描かれる侵略者とおびえる祖先がスラヴ民族の苦難さを象徴するだけに
ミュシャの愛国者としての側面が容易に想像できる。
他の作品もスラヴ民族の歴史に欠かせぬ場面が巨大なキャンバスに描かれている訳だが、
画面全体が明るいという絵は少なく、絵の一部だけが明るく他はうす暗いという
スポットライト的効果を狙って描かれているものが多い。
例えるならレンブラントの「夜警」だろうか。
例えば「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」は
主役であるはずの皇帝より手前の民衆に視線がいく仕掛けだ。
ミュシャの視点がどこに置かれていたかの証左だろう。

また、作品に対峙すると、ときどき目を見開き凝視してくる視線に気がつくはずだ。
まるで鑑賞者の内面を見透かすかのようなもの問いたげな視線の意味を考え、
一瞬いろいろな思いが浮かんでは消える。
色々な解釈が可能なのだろうが、凝視する人はいずれも民衆であるように思われ、
歴史の中で苦難の道を歩まざるを得なかった民への深い同情と共感があるように思われる。
ポスターで確立されたミュシャらしさとはかけ離れた技法でミュシャは民族への
深い共感を描ききったと言っても過言ではないだろう。

通常の美術展では作品の子細をもっと見ようと鑑賞者が作品に近づくものだが、
こと「スラブ叙事詩」では、その巨大なスケールを鑑賞するために
ほとんどの人が作品から離れて鑑賞するというスタイルをとる。
そのため絵の近くが空き、展示室の真ん中周辺が混雑するという現象が珍しかった。

ミュシャを一躍有名にしたポスター「ジスモンダ」をはじめ堺市からの出品が
多く展示されていて目を引いたが、こういう事情(Wikipediaの「日本との関係」参照)
あったんですね。初めて知りました。

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# by capricciosam | 2017-04-18 22:40 | 展覧会 | Comments(0)

札幌交響楽団第597回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】

1 メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
2 シューベルト 交響曲第5番変ロ長調
3 ブラームス 交響曲第1番ハ短調

1の重く暗い抒情は実演で聴いた中ではこれまでで最良のものだった。

2は第1楽章冒頭から愛らしい表情を感じるのが一般的な解釈とは思うのだが、
エリシュカさんは細かく振ってやや素っ気ないテンポでずんずん進む。
そのため叙情的雰囲気を感じるヒマもなく、この曲が纏っていた虚飾を
次々はぎ取っていくようだった。
クールな解釈、クールな演奏とでも言えばよいのか。
しかし、決してこの曲の持ち味を損なっているようにも思えない。
むしろ新鮮なのだ。これは新たな発見をした気分だった。

3は名曲だけに札響の演奏回数も多く、これまでも札響含め実演に接する
機会も多かった。そのためブラームス交響曲全曲演奏の完結にこの曲を
持ってきたエリシュカさんの意気込みは相当のものがあったはずではないか。
2で示された方向性がさらに徹底していたようだ。
大きな流れよりも細部が浮き上がるという印象が強い。
そのため委細かまわず一体となって頂点を目指すような解釈とは距離を置く、
随所を明晰にしたことで浮かび上がる作品それ自体に語らせる
という印象の強いものとなった。
手垢にまみれた名曲ブラ1の新たな一面を示されたような思いがした。

独墺系の定番曲ばかりのプログラムだが、エリシュカさんの手にかかる
と新鮮だ。「眼光紙背に徹する」という言葉がある。
指揮者にあてはめるなら、楽譜を読んで作曲家の意図をくみ取り、
どれだけのものを演奏者、聞く側に提示できるかで、
この言葉にふさわしいか否か、ということが言えるのかもしれない。
エリシュカさんが札響を振ると刮目させられることが多々あったが、
今日の演奏を聴いて先ほどの言葉にふさわしい一人ではないか、
という思いが一層深まった。

弦楽器や木管の艶やかな響きは一貫していたが、金管の響きには
やや違和感が残った。特にホルンには力強さは感じたが、固さも感じた。

昼公演。空席もそれ程目立たずほぼ満席。
鳴り止まぬ拍手とブラボーに客席の満足度が現れていたと思う。

次回は「英雄」で10月定期に登場するエリシュカさん。
新たにベートーヴェンの交響曲に取り組むようです。
すでに取り上げた「第九」「田園」4番も重複して取り上げるのかな?


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# by capricciosam | 2017-03-11 20:01 | 音楽 | Comments(0)

柳家小三治独演会@六花亭ふきのとうホール2017

7年ぶりの柳家小三治独演会。
毎年のように応募するものの、人気公演だけに落選続きで、
半ばあきらめ気味だっただけに今回は望外の喜び。
当日はあいにく吹雪いていましたが、天気にめげるもんじゃ~ありません。
会場は従来の真駒内店から新築された札幌本店ふきのとうホールに。

定刻になり開演。
はじめに登場したのは柳家三之助師匠。
7年前に登場した時は真打ち直前の二つ目でした。
落ち着いた雰囲気で手話落語ネタで笑いをとって「のめる」へ。
お互いの癖を使った化かし合いの古典だが、
演じ分けと小気味のよさがしっかりと伝わる。

続いて柳家小三治師匠登場。
「寒いところ、わざわざ出向いたのは、私の方です。」(笑)
例によって長~いまくらの中で自分は77歳だと言ってましたが、
久しぶりにみると、やはり外見は老けましたね。
脳内残像の師匠は7年前だから、そりゃあ当たり前か。
一瞬言葉に詰まる場面が多くなったし、
「自分で何言ってんのか、わかんなくなっちゃった」と言っては話があちこちに。

50歳の時働いて働いて、ようやく3週間のまとまった休みをとれた。
それで英語をしゃべりたくてUCLA近くに留学した。
というより、字幕なしで映画が観たいと思って行ったとのこと。
でも「英語はベラベラのベにもならない」し、
「あの国の言葉はあの国の方に任せた方が良い」と笑わせます。
米国だと英語を話せない移住者がいっぱいいる。
中華料理店で「This one,please.」と言っても反応は「?」
それでもちゃんと生きている。
だから日本に来て英語で話しかけるオマエが間違っている、と笑わせます。

昨年天皇陛下ご夫妻に呼ばれて一席やってきた時のこと。
「良い座布団がなくてね」そこで思い出したのが六花亭。
夏用の座ぶとんを使わせてもらったというエピソードを披露していました。
(これは帯広本店での独演会で使用しているものなんでしょうね、きっと。)
そして「(これも)言ってみれば、みなさんのポイントのお陰」(笑)

40分余りの長~いまくらを終えて「宗論」へ。
浄土真宗を信仰する父とキリスト教を信仰する息子のいさかいの話。
息子のデフォルメされた話っぷりで笑いをとって、さげは定番どおりに。
落語に入ると言葉の詰まりもなく、淀みなく話の世界に引き込んでいく
その様は、さすが名人という他ありません。

中入り。真駒内では定番だった茶菓の接待がありません。
あのひと時はほんわかして好きだったんですが、少々残念。

再び小三治師匠が登場。
着物を代えて羽織は着ていません。
出る直前に鏡を見て「改めて老けたなー」と笑わせます。
「(世の中には)そそっかしいのが2通りいる」ときて、「粗忽長屋」へ。
以前聞いた「船徳」「付き馬」のようなボリュームのある古典を期待していたのですが、
古典の定番中の定番だが、ちょっとこぶり。
まあ、師匠の年齢を考えたら無理はいけません。
2席聴けただけでもありがてぇ、ってもんです。
しかも、当夜の「粗忽長屋」はお手本のような出来。
どうも、うまいねぇ~、さすがだね~。

最後にご挨拶をし、「表はすっかり晴れ渡って月夜です」と一瞬言葉を切り
破顔一笑して「だったら良いですねぇ~」と会場を再び大笑いさせ、お開きです。
師匠にも、もてなしの変化にも改めて7年の歳月が流れたことを感じましたが、
でも毎年開かれている独演会だけに、ここまで継続してきた師匠にも、
六花亭にも賛辞を惜しみませんね。
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【追記2017.8.8】
「高座では、仏壇の前で小言を言う演目「小言念仏」を小気味よく披露した一方、
認知症の一種、アルツハイマー病を患っている可能性があると告白。
「今年に入ってからか。頭がおかしくなる、アルツハイマー」と衝撃発言(略)
関係者によると、同病と診断されたわけではなく、「年をとると物忘れがひどくなるので、
その治療をしている」という。小三治も「アルツハイマーかもしれないってこと」と
ひょうひょうと報道陣に説明した。」

(以上、サンスポより引用)
唐突に心配な記事が、、、



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# by capricciosam | 2017-02-02 23:57 | 舞台 | Comments(0)

札幌交響楽団第596回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】
1 J.S.バッハ 管弦楽組曲第3番ニ長調
2 J.S.バッハ 管弦楽組曲第2番ロ短調
e J.S.バッハ 管弦楽組曲第2番ロ短調より第7楽章「パディヌリ」
3 J.S.バッハ 管弦楽組曲第1番ハ長調
4 J.S.バッハ 管弦楽組曲第4番ニ長調
e J.S.バッハ 管弦楽組曲第3番ニ長調より第2楽章「アリア」

管弦楽組曲はJ.S.バッハのオーケストラ曲の代表的作品で、第3番第2曲「エール」が
「G線上のアリア」として演奏会でも耳にすることが多い。
しかし、全曲演奏会となると話は別で、今回が初めてだった。

札響での演奏回数も組曲ごとにみると、第2番が13回と比較的多いものの、
1番、3番は一桁台、4番に至っては今回が札響初演。
つまり「札響とバッハ」は案外ありそうでなさそうな取り合わせだったという訳だ。
その上、出演は団員の半分程度でパートによっては出番なしの変則編成だけに、
定期演奏会より名曲がふさわしいのかも?なんてことも頭をよぎる。
今回は「バッハ・プロジェクト」の第1弾として企画されたようだが、
よくぞ踏ん切ったと企画そのものにあっぱれをあげたい気分だ。

所有するCDでは番号順収録なので、順番に聴くのを常としていたが、
今回の演奏順はポンマーさんの指示によるものだそうだ。
華やかに始まり、協奏曲を経て華やかに終わるという構成は、
全体をひとつの作品としてとらえられ、なかなか新鮮だった。

札響も弦楽器を中心にオーボエ、ファゴット、トラペット、ティパニ、チェンバロが
緊密なアンサンブルを築き、素晴らしい響きが大ホールを満たす。
特に、トランペットとチェンバロは見事だった。
また、フルート協奏曲の趣のある第2番ではフルート首席がソロを務めたが、
堅実で安定感があり十分楽しめた。欲を言えば更なる華か。

ポンマーさんは、古楽器演奏で聴かれるようなゴツゴツした演奏ではなく、
音楽の自然な流れを重視した明るく、親しみに満ちた演奏を求めていたようだ。
昨年秋の特別レクチャー(未聴)でポンマーさんは

「本来の音楽がどんなに陽気な表情にあふれているか、お楽しみください」
 (会場配布資料より引用)

とおっしゃっていたようだが、まさしく本公演ではそれが体現されていたと思う。
もっとも、奏でられた音楽の表情の暖かさ、なじみやすさは温微的、表層的とも
とられかねない側面もあろうから、そういう点では好みは分かれるのかな。
しかし、

「長い間ドイツの民衆の間で発展してきた舞踏音楽と、華麗で洗練されたフランスの
宮廷音楽を合流させ、生活力あふれる素朴な民衆音楽を芸術的な高みに至らせたもの」
 (会場配布資料より引用)

という視点で見ても決して的外れなものだったとは思えない。
会場からはブラヴォー含め盛んな拍手が送られていた。
最後にポンマーさんが楽譜を高く掲げていたのが印象的。

昼公演。客入りは8~9割か。
CD化目指した録音が行われていたが、途中で大きなくしゃみがあったのは残念。

「バッハ・プロジェクト」第2弾は12月定期の「クリスマス・オラトリオ」(抜粋)です。

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# by capricciosam | 2017-01-28 22:19 | 音楽 | Comments(0)