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福田繁雄大回顧展@札幌芸術の森美術館2012

M.C.エッシャーの有名なだまし絵に「滝 WATERFALL」という作品があります。
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水路を流れる水が滝つぼに落ちると、また水路を流れていき滝つぼに落ちる。
まるで無限運動のようですが、よく見るとなにやらおかしい。
奥行きと高さは個々に適合しているようですが、3次元的には適合していない。
立体を平面に押し込めた時に生じる錯覚を利用した訳ですが、
一見しただけではわかりにくいし、立体としては不可能のはずなのです。
しかし、福田さんはこれを立体的な作品として仕上げてしまった。
ある角度の視点から覗いて見るという制限はつくのですが、
それでも巧みに表現されていたのには驚きが先立ちました。
覗き窓から離れて近づいて見たりもしたのですが、やはり水は滔々と流れている。

「どんなからくりなの? えっ、福田さん。」

と、思わずニヤっとして、内心でこんな問いを発してしまった。

今回の展覧会も副題は「ユーモアのすすめ」とあるように、
「視覚」と「遊び」を融合させた、不思議で思わずクスッとくるような作品が多く、
固くなった頭には実に楽しい刺激に満ちています。
例えば、「ミロのヴィーナス」の胸像をベースに有名人の肖像をペイントしてある
一連の作品には、「どうして、こんなに似ているのだろう」と思わず唸ってしまいました。
リンカーン、モナリザ、エリザベス・テイラー‥
白人だけではありません、なんと聖徳太子、雪舟、その上、作者自身まで。
中でも、傑作だなと思ったのは歌川国芳の寄せ絵。
思わず吹き出してしまいました。

でも、中には思わず襟を正したくなる作品もあります。
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福田さんの代表的作品のひとつが写真の「VICTORY 1945」。
「ポーランド戦勝30周年記念国際ポスターコンぺ」で最高賞を受賞した作品ですが、
よく見ると、大砲から撃ち出されたはずの砲弾の向きが逆になっている。
戦う相手に与えた打撃も、結局は自分にも打撃となって返ってくるという
戦争そのものの無意味さを完結な構図と色でシンプルに訴えている傑作です。

襟を正すという感覚に近かったのが、破綻した旧北海道拓殖銀行のロゴマーク。
ある世代以上の道民にはなじみ深いあのマークです。
小生も社会人として歩みだした時に口座を開設したのが「たくぎん」でした。
破綻してから15年くらい経ちますが、展示されていたのが旧本店の看板だけに
胸にグッとくるものがありました。

福田さんの肩書きは「グラフィックデザイナー」ということなのですが、
そんなカテゴリーには収まらない自由さと深さを感じさせる作品群に
時間を忘れて見入ってしまいました。
いっしょに行ったカミサンが一足さきに出口で待っていたのですが、
小生が開口一番「あ~、おもしろかった」と言ったら、
出てくる人の感想はみな同じだった、とのことでした。
そうだろうな、と納得して退出しました。
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<蛇足>
展示されている中には木製の玩具もありました。
福田さんは長女が誕生したのをきっかけにこの玩具づくりをはじめられたのだそうですが、
その長女が福田美蘭さん。
先の記事で偶然ふれましたが、思わず「なるほどなぁ~」です。
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by capricciosam | 2012-08-04 22:47 | 展覧会 | Comments(0)

大原美術館展@北海道立近代美術館2012

国内でも屈指の美術館として有名な大原美術館(岡山県倉敷市)。

数十年前ですが、独身時代のカミサンや知人がほぼ同時期に訪れていて、
収蔵作品の絵はがきをお土産にもらっていました(一枚の重複もなし)。
その規模といい、収蔵作品の多さといい、話を聞いているだけで
一度は訪れてみたいものだ、とかねがね思っていました。
絵はがきは、今も時々引っ張り出してきては眺めています。
セザンヌ、ロートレック、ピカソ、デュフィ、ゴッホ‥
印象派を中心に見応えのある作品が多いな、という印象をもっていました。

それで、今回は北海道初上陸とのことですから、絵はがきで楽しんでいたうちの
何点を鑑賞できるのか、と期待してでかけました。
結果は2点だけ。パリ郊外(ユトリロ)、静物(ヴラマンク)。
正直、ちょっと肩すかしを喰らったような気分だったのですが、
でも、それ以外の作品も見応え十分でしたから、
やはり大原美術館の膨大なコレクションの一部に過ぎないということですね。
今回観たらわざわざ倉敷まで出かけなくても良いかな、なんて甘い考えは通じませんでした。
まあ、残りの作品をこの目で見る楽しみが残りましたから、
機会を見つけて一度は訪れてみたいものです。

また、現代作家のコレクションにも力を入れているとのことで、
「生きて成長していく」美術館としての一端を垣間見ることができたのは幸運でした。
中でも、福田美蘭の「安井曾太郎と孫」が印象に残りました。
コレクションの中に安井曾太郎の「孫」という、洋イスに座っている孫をモデルに
描いてる一枚がありますが、この描かれている様子を、まるで見ていたかのごとく、
安井タッチで第三者の視点で描いてます。
おふざけとでも、パロディとでもとれそうですが、福田氏の視点が強烈に感じられ、
絵画における換骨奪胎の手法としては見事な一品というべき作品であると思いました。

小谷元彦の「ロンパース」には、偶然の再会を果たした。
小谷の有する繕われた皮膚下への強烈な関心の一端が現れていることを再確認。
万人受けする作家ではないとは思うが、今後の変貌が楽しみな作家の一人だ。
7月8日まで開催。
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by capricciosam | 2012-06-16 17:12 | 展覧会 | Comments(0)

北海道現代具象展@北海道立近代美術館2012

昨年放送された「日曜美術館」で野田弘志さんが特集されているのを見た。
超写実主義という分野で活躍されていること、そして
この分野において多くの作家が多様な作品を生み出していることを知った。
どの作品も油絵ながら、写真で写しとったかのような鮮明さ、細密さで描かれている。
まるで、対象そのものの見に見えぬ本質までをも描き出そうとしたかのような
作者の意気込みや迫力を感じるのだ。
中でも、野田さんはこの分野において現代日本を代表する一人なのだという。

番組では、北海道のアトリエにおける創作活動が披露される。
起床してから、食事以外はアトリエに籠もって創作活動に打ち込んでいる姿は
とても70歳過ぎとは思えない。
その中で野田さんはインタビューに答えている。
「人間の生から死に至る存在そのものを描きたいんだ」と。
やはり、この執念が作品に滲むということなのだろう。

作品では、様々なモデルを対象に描いている。
風景、刈り取られた小麦束、動物の頭骨、裸婦、赤ちゃんetc
作品は、まずモデルを写真に撮って、写真を元に仕上げていくようだ。
番組では、雪のある中を一人の妙齢の婦人がわざわざ東京からやってきて、
ドレス姿でモデルとなる様子が紹介される。
その写真撮影や作品として仕上げていく過程を放送するが、
番組では作品の完成形までは放送されなかったのが、心残りだった。

ちょっと前置きが長くなったが、今回訪れた第5回北海道現代具象展で、
実はこの時の作品が「崇高なるもの Op.1」として展示されている。
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野田さんの作品は2点だけだが、会場に足を踏み入れるまで知らなかっただけに、
対面した時には心底驚いた。

「あの時の作品だ!」

番組では野田さんが拘っていた手も含めて、まじまじと接近して見ることができたが、
決して細部まで綿密に描かれ、塗られている訳ではないことに驚いた。
番組で細部に拘って綿密に描写していたと思われた野田さんの姿から
勝手に想像していただけのようだ。
しかし、どうみても油彩そのものなのに、ちょっと離れて見ると、
見事に活き活きとモデルが立ち現れてくる不思議さ。
技巧的にはなにも目新しいものではないのかもしれないが、
完成された作品を前にすると、鑑賞者は言葉を失い、その迫力に圧倒される。

もう一点の裸婦を描いた作品「聖なるもの THE-Ⅲ」は、性器が見えるくらい
膝を深く曲げて横たわった姿態が明るく浮かび上がる中、逆に顔は影の中にある。
しかし、目は見開かれ、鑑賞者から逸れた目線は一体何を見つめているのか。
鑑賞者の想像を刺激して止まない。
わずか2点だが、他の作品群の中にあっても目に飛び込んでくる一揃いだった。

具象とは、
「はっきりした姿・形を備えていること」
(以上、コトバンクより引用)
という意味らしい。
抽象画のように単純化された点、線、面等で構成されていない画なので
鑑賞に無理な想像力を求めませんが、鑑賞者の想像が刺激されることがない訳ではありません。
また、作品とは本来そういうものなのでしょう。
野田弘志さん以外では、道内に縁のある作家や招待作家含めて多くの作家が
2点程度ずつ出品しており、多種多彩で、なかなか見応えのある展覧会でした。
今回が最終回とは残念なことですが、ぜひ形を変えてでも復活されないものか、と思います。

実は、佐々木譲さんが今回の展覧会に野田弘志さんが出品されていることを
つぶやかれていたことから、初めて足を運んだ次第です。
佐々木さんはすでに初日にご覧になったようで、いくつかのつぶやきを残されています。
中でも、本展覧会のHPに取り上げられている笠井誠一さんの作品を巡る発言には賛成ですね。
小生も探してしまった口ですから、なおさらです。
それにしてもアーチスト・トークは聴きたかったな。
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by capricciosam | 2012-03-22 22:40 | 展覧会 | Comments(0)

北の土偶@北海道開拓記念館2012

1975年道南の旧南茅部町の自家野菜畑で、それは発見された。
確か、主婦の方がいもを掘ろうとしたはずだ。
2007年に北海道初の国宝となった「中空土偶」である。
国宝指定当時、道内では大いに話題になったのでご記憶の方も多いと思う。
偶然とはいえ、ほぼ無傷らしいから実に幸運だったと言わねばならない。
現在の愛称は「カックウ」という。
南茅部の「茅(カヤ)」と「中空(クウ)」からとったものらしい。

当時、「機会があればみたいものだな」とは思っていたものの、遠方だけに
わざわざ出かける気力もなかったが、今回他の2点の国宝土偶とともに展示される、
しかも期間中本物展示は期間限定(期間後は複製)とのことだったので、
どうせ見るなら本物を見ておきたいと思い、出かけた次第だ。

ところで、「土偶」ってどんなもの!?なのでしょう。

「世界各地の先史時代を中心に広くみられる人間をかたどった土製品。
乳房や臀部を誇張した女性像が大部分で,男性を表すのはまれである。
動物をかたどったものは動物土偶と呼ばれ,素材に石を使ったものは岩偶という。
日本における動物土偶は,縄文時代後期から晩期にかけて,おもに東日本でみられ,
猪が最も多く発見される。他に犬,猿,熊,ムササビ,亀,ゲンゴロウなどがあり,
いずれも食糧などとして生活に密着した動物が選ばれた。」
(以上、コトバンクより引用)

確かに、それほど広くないスペースに展示されている
大小様々の約130点の外観上の形はこの定義にあてはまるようだ。
しかし、その多様さには、改めて驚いた次第だ。
例えば、他の2点の国宝土偶のうち、長野県で発見された「縄文ビーナス」は、
腕の解釈がなんとも不思議なのだが、そのフォルム含めた紋様もないシンプルさが
逆に想像力を刺激して惹き付ける。
一方、先ほどの「カックウ」や青森県で発見された「合掌土偶」には一定の紋様が施され、
いかにも土偶らしさが感じられる。
「カックウ」のちょいと小首を傾げた立ち姿には愛らしさ、さえ感じる。
しかし、合掌土偶の体育座りして、その腕を膝の上にのせて組み、必死に願うがごとき様には
なにやら一心不乱的なものを感じていたが、展示の解説を読んでさらに驚いた。
当時の出産は「座産」といって座って出産したようで、安産を願う妊婦との解釈ができるらしい。
子孫を生むという、当時の母子の生存をかけた必死さが凝縮されているんだな、
と捉えなおして、改めて見つめ直してしまった。
産院での出産が当たり前と捉えている現代に生きる小生には驚き以外の何ものでもないし、
悠久の時を経て、当時とは比較にならない安全な環境で出産できる子孫がいかに恵まれているか、
ということに思い至ったのはごく自然なことと思う。
まぁ、出産環境と言っても、単に産むだけでなく、そこに至る諸条件もあるから、
一概には言えないのかもしれないが、少子化が進み、人口減少に悩まされる現代日本社会を
見たら当時の人はどう思うのかな、とも考えてしまった。

縄文時代後期、晩期とは、Wikipediaによれば、
「後期(紀元前約4,500 - 3,300年前)、晩期(紀元前約3,300 - 2,800年前)」
とある。想像を絶する程の旧い、旧い時代であることは間違いない。
当時の彼らの営みがあったればこその現代に生きる我々なのだから、
遠き祖先に思いを馳せて、謙虚に足もとを見つめ直す意味でも
とても興味深い展覧会だった。
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<追記>
この企画展は昨年4月に予定されていたらしいが、東日本大震災の影響で
展示物の輸送が困難になり、一年延長されたとのこと。
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by capricciosam | 2012-03-20 07:02 | 展覧会 | Comments(0)

巨匠たちの饗宴@北海道立旭川美術館2011

会場に足を踏み入れると、洋画、日本画の順で、日本近代絵画の
画家たちの絵が、これでもか、とばかりに展示されている。
これだけまとまって展示されたことは道内ではかつてなかったのではないか。
壮観の一語につきる。

これらは、広島県廿日市市のウッドワン美術館のコレクションの一部だそうだが、
さらに驚くのは個人がおよそ20年程度で収集したということだ。
その資金力もさることながら、その「目利き」ぶりにも驚く。
もちろん、ある作家を追ったとか、あるテーマに基づいて収集した、ということでは
なさそうなので、コレクションの「深み」という点では、少々物足りなさを感じたが、
しかし、考えてみると、どんな美術館もひとりの作家やテーマについて完璧に
コレクションしていることはほぼない訳だから、これは欲張りというもの。
むしろ、「日本近代絵画」といういささか幅広いテーマの下、コレクションを
より充実させていくことができるならば、さらなる厚みが増していくのだろう。
でも、今回の展示だけでも、十分なボリュームであることは間違いない。

中でも、同じ洋画とは言いながら、興味深かったのが林武と岡鹿之助との対比。
前者は晩年の代表作「赤富士」シリーズのうちの一枚である。
顔を近づけてみると、絵の具をキャンバスにたたきつけるがごとく塗ってあるので、
絵の具がまさしく盛り上がっている。
かたわらの解説にはチューブからそのまま塗りつけた、と書いてあった。
そのため、写実性とはかけ離れ、色も混然としている。
一見したら素人にもできそうな荒技だ。
では、絵としての佇まいが悪いのかというと、決してそうではない。
むしろ、富士山の壮大さ、というか凄味がよく表現されているように思う。

後者については点描画家としての印象はあったものの、実際の絵を見るのは
今回が初めてだった。そして、その点描が実はキャンバス地そのものに由来して
描かれていることを発見して、驚いた。
つまり、地がわからなくなるように絵の具を塗り重ねている部分はあるものの、
大半は絵の具をキャンバス地が浮き上がる程度に押さえていることだ。
それが巧みな配色によって点として目に飛び込んでくるという訳だ。
これは代表的点描画家スーラとは決定的に異なっているように思われる。
作者が相当熟慮して絵筆を運ばなければ絵としての完成はおぼつかない訳で、
技法としての難易度は一見したよりも相当難しいように思われた。
そして、その抑制された筆づかいのせいか、作品には静謐さが満ちあふれている。

林の「動」と岡の「静」。
異なった表現の技法により作品の湛える魅力も異なるが、
どちらも近代絵画に残した足跡は消えることはない、と改めて感じられた。

道立旭川美術館では9月9日まで。
その後、北海道立帯広美術館で9月16日~11月7日。
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by capricciosam | 2011-08-21 22:46 | 展覧会 | Comments(0)

有島の一言なかりせば

途中からみた日曜美術館は「ゴッホ」を特集していた。
スーラの点描から影響を受けたというのは初めて知った。
しかし、スーラの作品の後に紹介された「自画像」は
ゴッホの個性が横溢しており、明らかにスーラとは異なる。
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単に点だけで描いた絵ではない。
ましてや、平面的に塗りたくった絵でもない。
皮膚の下の筋肉でも描いたかのような、顔中毛でも生えたかのような、
多彩な色彩の「線」で構成されている。

「そうだ。点ではなく、線なのだ。」

点描から線描への脱皮をしたことで、他者との異なる画境に到達し、
今や、その画風は時代や国境を越えて愛されている。
今更改めて指摘すべきことでもないのだろうが、やはり凄いことだと思う。

結局のところ、画家はただ作品によって
不特定多数の外部評価を受けることになる。
実際、作者や作品に関するエピソードは鑑賞の参考としては否定しないが、
やはり作品本来の持つ力には叶わないと思う。
力には画家の込めたパッションはもちろんだが、
鑑賞に堪えさせるだけのテクニックも必要だろう。
少なくともこの両者がなければ、繰り返しの鑑賞には堪えられない
のではないか、と考えている。
その点、ゴッホは両方が高度に両立している一人ではないかと思う。

ところで、番組終りに特集されていた道産子画家「木田金次郎」の絵は
この点でいうと、少々異なっているのではないか、と思う。
終生岩内で過ごして画業に邁進したその熱情を揶揄するつもりは毛頭ない。
むしろ、ゴッホとの対比で惜しいと思う気持ちがはっきりしてきた。

今から30年くらい前に北海道立近代美術館の特別展で氏の作品を
まとまって観る機会があった。
木田のパッションが満ちあふれる作品を次々に鑑賞していくと、
段々心がざらつきだした。
まるで作者にふりまわされているような、妙な落ち着きの悪さを感じたのだ。
一体何故なんだろう、と自問してみて、気がついたことがある。
それは、あふれる熱情と、それを絵に定着させるための技巧の
バランスの悪さということだ。
落ち着いて鑑賞していられるだけの技術が不足しているのだ。
もし、木田が学ぶことでこの点をカバーできていたのなら!?
より一層の光を放つことになったのではなかろうか。
この点は、生涯岩内という地に留まり、独学した木田の避けられない宿命
だったのかもしれない。

生涯師と仰いだ有島武郎とのエピソードが残されている。

「(略)手紙には、「北海道にいると絵が描けない。東京へ出て何か適当な
仕事をしながら絵の勉強をしたいので、職をさがしてほしい」とあった。
それに対して有島は、「その地におられてその地の自然と人とを忠実に熱心に
お眺めなさる方がいいに決まって居ます。」と激励し、その言葉に
「世界が急に明るくなった」木田金次郎は、岩内にとどまる決心をしたのである。
木田を「岩内の画家」にした、決定的な事件である。」
(以上、木田金次郎美術館より引用)

もし、有島が東京での職を斡旋して、木田が技術を身につけていたのなら
その作品は今ある形とは異なっていただろう。
木田のその後を左右した有島の役割はつくづく大きく、重かったなぁ、と改めて思う。
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by capricciosam | 2011-02-20 23:49 | 時の移ろい | Comments(0)

赤塚不二夫展@大丸札幌店2010

この暮れの押し詰まった時に、なんともユニークな企画展が
開催されていたので、買物のお供ついでに覗いてきました。
企画展はギャグ漫画で一時代を築いた赤塚不二夫さんに関するものです。
(先日からちょっと旧い話ばかりで恐縮です。)
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展示の中心はトキワ荘時代含む初期の頃からの原画。
思わず読んでしまったために、少々時間もかかりましたが、
なにしろひとり笑ってしまうことが多々あり、
挙動不審者と間違われないか、と冷や冷やものでした。
しかし、会場で鑑賞している他の人も似たような反応の人も
いない訳ではなかったので、小生の笑いもまあ素直な反応なんだな、
と自分を納得させていました。
でも、今読んでも実際面白いんだから凄いものです。

ところで、認識を新たにしたことが原画の線や色使いの丁寧なこと。
生前の破天荒な言動やエピソードから、なんとなく
作品のタッチもラフなものだろう、と勝手なイメージを抱いていたことが
恥ずかしくなるような見事な仕上げで、一点一画に込めた赤塚さんやスタッフの
仕事ぶりに感動してしまいました。
この辺りに気づきだしてから、襟を正して見入ることになりました。

まあ、「おそ松くん」から親しんだ世代としては、懐かしさが主体の
軽い気持ちだったことは否めませんが、改めて赤塚さんの開拓された
ギャグ漫画が単なるナンセンス(死語?)なだけでない、実にシュールな世界にも
踏み込んでいたのだなぁ、と感心してしまいました。
特に、ナンセンス度が高い漫画としては「天才バカボン」が有名ですが、
確かに、一歩間違えば「悪ふざけ」と糾弾されそうな実験的手法も試している
ことには驚きました。
まあ、ある程度のわがままが通用する立場に立ったからこそできた、
という側面も確かにあるのでしょうが‥

まあ、そんな小理屈を言わなくても楽しめることは間違ありません。
最後の展示スペースでは多くの漫画主人公だけでなく、いろんな分野の有名人が
イヤミの「シェー」をやっている写真がパネル展示されていました。
ホント、私もよくマネしましたが、改めて世間に与えた影響の大きさを
伺わせるなぁ、と関心しました。
そして、思わず唸ったのが、出口のところに書かれてあった次の言葉。

「私は2008年8月をもって、赤塚不二夫から不二院釋漫雄
(ふにいんしゃくまんゆう)に改名するのだ、ニャロメ」

展示を観ていくと、赤塚さんは生前一度だけ改名されていたそうです。
それで、これは二度目でもあり、ラストの改名であることが
鑑賞者にはわかります。

改名も読み方によっては戒名。
しかも、自分の死も笑い飛ばしてしまうその着想の凄さ。
(最も、ご本人とは書いてなかったので、ひょっとしたらお嬢さん!?)
戒名をここまで笑いのめした例は知りません。傑作。

ところで、赤塚さんの告別式でのタモリの弔辞は、
淡々とした調子とは裏腹に内容が実に心のこもったもので、
当時、小生も胸打たれたものでした。

「私も、あなたの数多くの作品のひとつです。」

しかも、実は白紙の弔辞だったらしいとわかった時の驚きはなかったです。
まるで「勧進帳」です。
パフォーマーとしての面目躍如だと思いました。



ところで、「あと一日で新年なのだ。これでいいのだ。」
なんてことを言っちゃったりなんかして(と、広川太一郎さん風)、
以上で年内の更新を終えます。
今年も駄文におつきあいくださりありがとうございました。
皆さま、どうぞ良い年をお迎えください。

<追記12.31>
YouTubeのタモリの弔辞をアップできました。
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by capricciosam | 2010-12-30 23:47 | 展覧会 | Comments(0)

東本願寺の至宝展@大丸札幌店2009

信徒でもないし、これといった美術品も展示されていないようだったが、
襖絵はなかなかみられないな、と思い直し、用事のついでに覗いてみる。

私には東本願寺も西本願寺も区別がつかないので、
歴史のお勉強のような感じであった。

解説によれば東本願寺は幾多の火災に遭っていた。
「蛤御門の変」
江戸末期に京都御所で起きたこの武力衝突事件では、
火災により本堂等が焼失していた。
解説では歴代の門首が徳川家と友好関係にあったことにより
放火されたとあり、思わず「へーっ」
時の権力と友好関係を保つ宗教としては
時勢が時勢だけに裏目にでた、ということか。
こんな因果関係を知っていたら、歴史の勉強ももう少し楽だったかな…

興味をそそられた「襖絵」
中でも円山応挙作の「稚松図/竹雀図」と「竹図/老梅図」
順路に沿って老梅図、竹図、竹雀図、稚松図 と鑑賞することになる。
老梅図は大胆なタッチで一気に仕上げたであろう様が感じられ、
右側の一枚に若い梅が描かれ、ほぼ中央に描かれた老梅からは
伸びた枝が左側の2枚に向かって伸びていき、可憐な花を咲かせている。
大胆な構成ながら、見応えがある。
竹図と竹雀図はともに金地に墨の濃淡を活かした竹林が
さわやかな印象を与え、雀が描かれた竹雀図は微笑ましい感じも。
最後の稚松図では若い松が黒々とした墨でひとつひとつ丁寧に
描かれている。
ここに至り、青壮老という創作のモチーフが明確に鑑賞する者に伝わる。

一方、棟方志功の襖絵は、正直「?」
「河畔の呼吸」はなんとか、「天に伸ぶ杉木」はさっぱり、という感じだった。
対面に飾られている有名な「富褸那」や「天女」が作品としての輝きを
放出していることに比べ、なんとも解せないのだが、
棟方志功のエネルギーの奔放さがそのまま噴出したかのようだ。
こりゃ、受け取った東本願寺側もとまどったのではないかな。

しかし、襖絵を観るには会場の狭さが、どうも弱点。
作品との間に十分な距離感を置いて観たかったなぁ…

近代京都画壇の作品の数々も見応えがあったが、
没年不詳の羽田月州の作品もそのひとつ。
これだけの腕がありながら、画歴がほぼ不明というのも不思議な感じ。
また、竹内栖鳳の天女を描いた未完成の下図には、正直ドキっとした。
天女から立ちのぼるエロスの濃厚なこと。
これまで観た栖鳳のいくつかの作品とは異なる指向を感じ、
「果たして、完成していたら…」
未完成に終わったことを残念に思った。
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by capricciosam | 2009-04-12 07:20 | 展覧会 | Comments(2)

セザンヌ主義@北海道立近代美術館2009

セザンヌ主義という言葉自体はじめて目にしたが、
「主義」という言葉が似つかわしいくらい、セザンヌが同時代や後年の
画家たちに与えた影響は大きかったということなのだろう。

そういうコンセプトのもと展示されている多様な作家の絵には、
なるほど、セザンヌに影響されただろうな、という、よく似た画風の
感じられる作品が少なくなかった。
しかし、なかにはキュビズムのピカソやブラックのように
一見しただけでは、素人には「?」のような作品も…

中でも印象に残ったのは安井曾太郎。
2作の「婦人像」が展示されていたが、1910年代の作品には
その影響がありありと感じられた。
しかし、もう少し後年の作は、代表作「金蓉」へと通じるような
安井らしいスタイルの確立に向けた前進が感じられる作品で、
本作においてセザンヌの影響といっても、浅学非才の身にはちと難しい。
その他、横たわる裸婦像や静物画(これはセザンヌ作と言われても
間違えそうなくらい、実にタッチが酷似している)にも影響が見て取られ、
とても意外な感に打たれていた。
必死の模倣を通じてオリジナリティを獲得していく様は、
どんな分野にも通じる話か。

あと、意外と言えば、小野竹橋。
「えっ、日本画にも!?」
書き込まれている内容は、一見すると伝統的な日本画なのだが、
視線が下(手前)から上(奥)に移動することで、見事な遠近感が出現する。
ちょうどセザンヌの作品で視線の移動にともない
上方にサント=ヴィクトワール山が出現するかの如き、とでも言えばよいか。
どん欲に研究した成果なのだろう。

さらに、意外と言えば、セザンヌ「水浴」(大原美術館)のサイズ。
大原に行ってきた友人からお土産にこの作品の絵はがきをもらって
作品自体は知っていたのだが、まさか実物がタテヨコ20cm程度の
小品だったとは、まったく想像できなかった。
その割に色調といい、構図といいいよく書き込まれているのには驚いた。

展覧会の核となったセザンヌ自体の作品はそう多くはないものの、
企画が楽しく、こんな切り口もあるのだなぁ、と
感心しながら会場を後にした。
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by capricciosam | 2009-03-09 00:45 | 展覧会 | Comments(0)

ヴィルヘルム・ハンマースホイ展@国立西洋美術館2008

ハンマースホイという人はまったく知りませんでしたが、
フェルメールとの類似性(写実的な室内表現)が旅行前から
たびたび話題になっていたので、ついでに立ち寄ってみました。

「し~ん」と静まりかえったかの如き室内風景が、
暗く沈んだモノトーンを基調として描かれています。
開け放たれたドアの向こうにも人の気配は感じられません。
しかも、たまに人が登場してもほとんどが後ろ姿。
モデルは妻のイーダ。
鑑賞者は、まさしく「覗き見る者」のごとき錯覚に襲われますが、
頑なに拒否されたような居心地の悪さはあまり感じられません。
むしろ、不思議な浮遊感さえも感じました。

同じ室内表現とは言っても、描かれる人の重みは
フェルメールの場合は「主」であって、ハンマースホイは「従」というか、
極力意識させない程度の存在として描かれていることから、
まったく別の方向性の個性であることがわかります。
テーマが「静かな詩情」とありましたが、まさしくそんな感じです。
これも見応えのある展覧会でした。

会場にはポスターにもなっている絵に登場するパンチボウルも
展示してありました。絵でもわずかに蓋が閉じられていないのが
わかるのですが、これは蓋の割れたところを金具で止めてあった
からなんですね。
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by capricciosam | 2008-11-30 13:30 | 展覧会 | Comments(0)