タグ:読書 ( 54 ) タグの人気記事

葉桜の季節に君を想うということ@文春文庫

先日PMFブックカバーの話を書きましたが、その時買って
カバーしてもらったのが、写真の文庫本です。
2003年に単行本として発刊され、2004年の「このミス」1位
だそうですから、お読みになった方も結構いらっしゃるでしょうね。

一見無関係な挿話が、このストーリーの最重要キーが明らかと
なる中で見事につながるのですが、著者のテンポ良い語り口に
一気読みでした。そして、まんまと騙されてしまいました。
(うまいなぁ~)
究極であるかどうかは別として、カバー裏表紙に書いてある
「徹夜本」は当たっていました。
著者の読者をミスリードする力はたいしたもので、「思いこみ」というか
「錯誤」を重ねていったのですが、このあたりがこの小説を成り立たせる
最大の要素だろうと想いました。
例え騙されるにしても、妙に後味さわやかなのは、
「恋愛」が余韻を残すからなのでしょうね。
たとえ、いくつになっても恋するときめきは良いものです。
(おっとこれ以上書くと、ネタバレになりそう…)

なかなか楽しめる一冊でしたが、ただ一点難を挙げるとすれば、
原作に忠実な映像化は困難だろうな、という点です。
ビジュアル化したら、ミステリそのものが成り立たない恐れが…
さて、どうしてでしょうか!?
未読の方は、この一点だけでも楽しめると想いますよ。
しばし暑さを忘れて楽しめた一冊でした。
(しかし、今夜は雨も近いせいか蒸します、ふーっ、暑い)
c0007388_22521094.jpg

[PR]
by capricciosam | 2007-06-14 22:52 | 読書 | Comments(2)

カラヤンとフルトヴェングラー@幻冬舎新書

クラシックを聞き始めた頃は、「クラシックと言えばカラヤン」
という世間で流布していた(と思われる)この言葉を鵜呑みにしていた。
つまり、カラヤンとベルリン・フィルの演奏を「最高」のものと信じていた訳だ。
当時の「何でもアメリカが一番」という感覚からすると、オーケストラの一番が
ドイツというのは、ちょっと不思議に感じたものだ。

本書ではそのベルリン・フィル首席指揮者の座が3代目フルトヴェングラー
から4代目のカラヤンに移るまでの両者の凄まじいかけひきが描かれている。
というよりも、大半はフルトヴェングラーの異常な猜疑心により引き起こされる
カラヤン排斥の動きとカラヤンがいかに対抗したかということなのだが、
まさしく「暗闘」と言っても過言ではない。
ともにヒトラー=ナチズムの台頭により翻弄されていくことは変わりないが、
微妙なタイミングのズレや陽の当たるポストにいなかった幸運等、何が幸いし、
何が災いするかわからない、という点ではまったく驚きの連続であった。
しかし、両者ともかけひきの要では、ここぞとばかりに自己主張しまくるのは、
やはり座をかけた戦いでは人間性をむき出しにして戦わざるを得ないからか。
地位、権力、名誉は、それを求める人には得てして似たような行為を求める
ということなのだろう。

本書の中でフルトヴェングラーの性格は「優柔不断」である、と何度も出てくる。
録音された演奏や世評からは、もっと颯爽とした決断力に富むような人と勝手に
想像していただけに、これには驚いた。
異常な猜疑心と優柔不断。
その上、長身のハゲ頭なのだから魅力ないなぁ、と思っていたら、女性には
えらくもてたようで、非嫡出子は十人以上との説もある、と知りたまげてしまった。
ただ、その優柔不断さに起因する対外的にわかりにくい行動が、戦後大いに
フルトヴェングラーを苦しめることになるのは、なんとも教訓的。

それから、ポストフルトヴェングラーの本命と思われていた
チェリビダッケが何故去らねばならなかったのか。
これはカラヤンとの暗闘などではなく、チェリビダッケの「自滅」というのが
ふさわしいようで、これもなかなか興味深かった。
確かに、ひとつのポストをめぐって勝者と敗者が生じることはやむを得ないこと
なのだろうが、三人三様の生き様には考えさせられる。
しかし、本書では特段言及されていないが、三人に共通していたのは
演奏芸術を統率する指揮者としては各々優れていた、ということだ。
その上での「かけひき」や「暗闘」なのだから、ドロドロ度が桁違いなのだろう。
c0007388_12201332.jpg

カラヤンもフルトヴェングラーも、戦後の非ナチ化審査を通過しなければ
公の場での演奏活動に復帰できなかった。カラヤンは復帰できない間に
英国EMIとの間でレコード録音を着実に進めた。そして、1947年、
フルトヴェングラーに3ヶ月遅れて復帰したカラヤンがウィーン・フィルと
録音した最初の曲がブラームスの「ドイツ・レクイエム」だった。
カラヤンは生涯に繰り返しこの曲を録音しているが、その一回目となった。
ヒストリカルな割りに音質は良いほうで、後年の録音に比べ颯爽としたいきおい
や熱気を感じる出来となっている。
c0007388_124845.jpg

[PR]
by capricciosam | 2007-03-25 12:28 | 読書 | Comments(2)

佐々木譲講演会@石狩市民図書館2007

石狩市民図書館で、リンクさせていただいている道内在住の
プロ作家佐々木譲さんの講演会が行われたので、
ちょっと遠出してでかけてきました。

天気も良く、主要幹線道路には雪はすっかりありません。
快適なドライブとなりましたが、石狩市もしばらく行ったことがないので、
道がすっかり変わっていて、ちょっと迷いました。
c0007388_20264299.jpg

さて、ほぼ定刻どおりに始まった講演は
「読書の楽しみ・本のある暮らし」
と題して時間をオーバーして行われました。会場は満席です。

最初に「サプライズ」として自作の朗読が行われました。
プロ作家が自作を朗読する例は少ないようです。
故吉村昭さんは生前北海道によく取材に来られ、北海道を舞台とした
作品を作られていますが、その北海道取材旅行の追体験をされた
雑誌掲載前のルポルタージュを読んでいただきました。
羅臼から始まって札幌で終わるルポを、佐々木さんは張りのある声で
あまり抑揚をつけずに、やや早口気味に朗読されていきます。
目を閉じて聴いていましたが、あの余韻を残した終わりは素敵でした。
興味のある方は次号の小説新潮でごらんください。
<3.24追記>
朗読されたルポは4月号の特集「吉村昭-矜持ある人生」の中の
名作紀行「失われたもの、残された記憶」です。3.22発売


次に読書についてですが、ご自身の成長とともに、どのような読書体験を
されてこられたかを紹介してくださいました。実にいろいろな本をお読みに
なっていらっしゃいますが、「活字が好き」というのが根っこにはあるようです。
これには「やはりなぁ」と、妙に納得してしまいました。
読んでばかりいたら、次第にご自分で書いてみようという気持ちがつのり、
実際に書き始められたのはキネマ旬報への投稿だったとのことです。
それも読者欄ではなく寄稿家として、つまりセミプロ級だった訳ですね。
そして、道東にある仕事場の書棚を紹介されていましたが、
そこももうすぐ満杯となるくらいの相当量の蔵書をお持ちのようです。
作品を作る上で膨大な資料が必要になるそうですが、そもそも
図書館にいかなくてもよいくらい本を集めてやろう、と決めたきっかけが
「図書館」だったとは意外でした。
お話で紹介された杓子定規な図書館の例には、正直驚き、あきれました。
(講演後、石狩市民図書館の方が、わが図書館は違うとフォローして
いましたが、紹介された例が非常識過ぎますからね、気持ちわかります)

それから図書館のことを、
静謐で「人類の英知が自分を見つめているかのよう」で好き
とおっしゃっていましたが、特に「 」部分には共感できますねぇ。
ホント、私もそんな気持ちに襲われたことがあります。

最後に、「小説家の発想の秘密」として自作誕生のきっかけの事情を
「ベルリン飛行指令」「ストックホルムの密使」「昭南島に蘭ありや」
「ワシントン封印工作」「天下城」
以上5作にわたってお話くださいました。
ある事柄に関してのぼんやりとした考えがあるきっかけ、例えば言葉や
歴史上の事実から想像力が刺激され、発展して(佐々木さんは「化学変化」
と例えていましたが、うまい例えですね)、作品化されていく。
あるいは当時の関係者や当時を生きた人の証言、あるいは現場踏査を
することで作品が形作られていく。
プロ作家の貴重な創作の一端を知ることができましたが、
これは実に興味深かったですね。

講演終了後、著作へのサイン会が行われたので、私も並んで
サインしていただき、リンクさせていただいているお礼も併せて
述べてきました。ちょっとびっくりさせてしまったようで、恐縮です。
c0007388_21232917.jpg

<おまけ>
写真は開会前の会場ですが、プロ作家の東直己さんもいらしてました。
お二人とも日本推理作家協会賞を受賞されているのですが、
佐々木さんは「エトロフ発緊急電」で第43回に、東さんは「残光」で
第54回にそれぞれ受賞されていらっしゃいます。
[PR]
by capricciosam | 2007-03-21 21:19 | 講演会 | Comments(2)

最後のジャズ入門@幻冬舎新書

以前書いた「積ん読の山」ですが、その中の一冊に
「最後のジャズ入門」がありました。
ジャズも好きなのですが、依然ビギナー状態です。
この本の副題が「挫折し続ける初心者のための」とありましたので、
「おっ、ピッタリだ、どれどれ」と買ってみたのでした。
ところが、読まないうちにリンクさせていただいている
プロ作家の佐々木譲さんのブログで題名は伏せているものの、
本書のことをテーマに記事を書かれているのを発見しました。
しかも、かなりご立腹されています。
佐々木さんのおっしゃっているのはおおよそ次のようなことです。

ジャズ、落語、歌舞伎etcの「パフォーミング・アーツ」は「ライブ」が大前提で
CD等の「記録」の鑑賞は次善の策である。
しかし、著者は(この大事な「ライブ」に一切触れることなく、)初心者による
CD選びの過ちを述べるだけ。これでは「入門書」ではなく、単なるCD鑑賞の
手引きだ。

そこで、慌てて読んでみたのですが、確かに著者は肝心な「ライブ」には
一言も言及されていません。そもそもCD鑑賞しか念頭になかったようです。
つまり、前提からして「CD鑑賞でジャズがわかる」との考えで書かれたもの
だったようです。これでは「入門」という言葉がライブも含みかねないので、
看板に偽りあり、ということになるのでしょう。
やはりステージの息遣いが伝わる「生」が一番であることには私も賛成です。
読み終えて私も肩透かしを食らった気分になりました。

佐々木さんは、昔の歌舞伎の名演をあたかも見たかのようにして論評する
例えで、この話の続きを書かれていますが、さすがですねぇ。
c0007388_23473275.jpg

[PR]
by capricciosam | 2007-03-05 23:47 | 読書 | Comments(2)

墨攻@映画

実は「墨攻」を知ったのは十数年前のコミックだった。
当時断片的に読んだが、墨家の革離一人で小国の梁城を趙の大軍から守る
という着想の面白さと漫画の描写力に結構楽しめる仕上がりだった。
でも、結末がわからず終いだったのでずっと気にかかっていた。
それで結末を知りたいのと、コミックがどう映像化されたのかを知りたくて
興味津々で観に行った。
c0007388_7553071.jpg

紀元前の古代中国の春秋時代。諸子百家の中で「儒墨」とも言われ、
孔子の儒家と並び称されたにもかかわらず、秦の統一とともに
歴史から忽然と姿が消え、明清時代まで存在が忘れられていた思想家集団。
それが墨家。その思想も資料により断片的にしかわからない。
「兼愛」と「非戦」
兼愛とは、分け隔てなく愛すること。
非戦とは、決して攻め込まないこと。

古代から長い封建制度が続いてきたという薄っぺらな歴史認識
しかない身には、数千年前の古代に現代でも通用する思想が存在した
ことが驚異的。でも、西洋でも哲学家や思想家は古代にすでに存在していた
訳だから、同時代の中国にこのような思想が存在したとて、
別段不思議ではないのかもしれない。

墨家を表すのによく使われるのは「墨守」。
墨守とは故事に由来するが、「頑固に守ること」
「非戦」の持つイメージとは異なり、攻めはしないが、防御は徹底的にやる。
つまり攻め込まれた相手とは存分に戦って、守り抜こうとする訳だ。
「墨攻」は原作者の造語で、
「守りに徹するはずの墨家が、何故攻撃なのか?」
との奇異な感じを抱かせる。しかし、非戦の意味がわかれば納得。
少ない手がかりを元に想像力を駆使した原作者酒見賢一の着眼は素晴らしい。

さて、肝心の映画だが、役者は初めて観る人ばかり。
主役のアンディ・ラウは存在感があり、うまい。
毅然たる敵の大将、卑小な梁城主も存在感がある。
ただ恋物語は原作やコミックにもない映画オリジナルで、
私にはちょいと浮き気味に感じた。
むしろ民衆の動きや群像に比重を置いて、もっと整理しても良かったか、
との思いも残った。ただ、悲恋にしたことで主役の陰影が一層深まった
効果もあった。
原作やコミックは日本、監督や主役は香港、敵の大将は韓国、撮影監督や
音楽は日本、ロケは中国で人民解放軍が協力、という見事な「多国籍映画」。
出来やさぞかし、と高をくくっていたら、とんでもない。楽しめた。
アジアという枠内での複数の国境を越えた映画作り、という地平を
見事に切り開いた、と言っても過言ではないと思う。
c0007388_001590.jpg

ここからは蛇足です。
今回、映画を観てから原作、コミックの表現が気になり改めて読んでみた。
c0007388_7563319.jpg

驚いたのは原作での登場人物はそのままだとしても、コミック化の段階で
奔放な改訂が行われており、その上映画でも再改訂されていたことだ。
例えば革離は原作では梁適(梁城主の息子)に矢で射られて死ぬのだが、
コミックでは梁適は反発するものの、結局革離の力になる。もちろん、
革離は死なない。映画では、梁適は最初から友好的。
さらに、墨家の獅子身中の虫である薛併は原作では梁城内で革離に
切られて死ぬが、コミックでは秦の動きにあわせて黒幕として暗躍する。
ところが、映画では出てこない。etc
改めて、創作するというのは随分奔放なものだ、と感じた次第です。
でも、原作、コミック、映画どれもそれなりの味わいがあって楽しめます。
ただ、基本的に戦いが主たる舞台ですから、残酷な場面が苦手な方は
コミックは敬遠された方が良いかもしれません。蛇足の蛇足でした。
[PR]
by capricciosam | 2007-02-16 23:54 | 映画 | Comments(4)

ワーキングプア

蔵出し最終回です。
「クリスマスの約束」のラスト曲「東京の空」の歌詞の一節に

「がんばっても がんばっても うまくいかない」

というのがあります。本来は二人の間のことなのですが、
恋愛以外にもこの詞のような深刻な事態がある、というのが
今回の話です。

「ワーキングプア」という番組は2回にわたって放送されたので、
ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
放送を見ていくうちに、私にはこの言葉自体の持つ「ミスマッチ感」は、
「異様さ」に、そして「衝撃」に変わっていきました。
それにしても労働人口に占めるこの層が、たいして表面に出ることなく、
徐々に増大している社会というのは、なんとも不気味なことです。
しかも、国がその実態を把握していない、というのもショックなことです。

番組でも指摘していたように終身雇用制度の崩壊とともに、
派遣社員や請負労働に代表される「非正規雇用労働」の増大が
一番の原因なのでしょう。ならば、景気回復とともに、正社員の採用が
増えれば解決するようですが、企業がいまさら正社員を増すとは
到底思えません。同じ仕事なら、ローコストでやってもらった方が
良いに決まっていることは、明らかです。労働環境は悪化するばかりです。
しかも、もっと問題だと感じたのは、構造改革や規制緩和の名のもとに
競争が激化して、いやでも敗者が生じざるを得ないのに、社会的に
「セーフティネット」が整備されていない、ということなのです。
いったん敗者になったら、支援制度も貧弱なのでもう浮かび上がれない、
というなんとも凄まじい社会がその姿を現しつつある、ということです。

でも、家族やローンを抱えた中高年も大変なんですが、
もっと深刻なのは若年層でしょう。
若年層が一旦この層に入ってしまうと、なかなか脱出することが難しく、
かつ非正規雇用はキャリアにもならないために、いわゆる正社員への道が
ますます遠のいてしまうか、なっても年齢の割りに給与が低いということです。
彼らは、意欲もあり、懸命に働いているのにもかかわらず、
生活保護水準以下の暮らしから脱出できない境遇に居続けざるを得ない。
番組に出演していた内橋克人さんの言う「貧困の再生産」に陥ってしまう
ことですが、やはりこれは異常な状態でしょう。
こうなりゃ、結婚も家庭もおいそれとはかないませんから、出生率の低下に
歯止めなんかかかるわけがない。老人が多くなるのに、それを支えてくれる
若年人口も減り、老人とておちおち安心して暮らせない。
しかも、この「ワーキングプア」層が今後も増えるだろう、というのですから、
事態の深刻さに認識を改めざるを得ませんでした。

やはり、将来の社会を危うくする要因となりかねないこの問題が
放置されてよいとは、到底思えませんでした。
果たして現内閣の掲げる「再チャレンジ政策」が功を奏してくれる
とよいのですが、何れにせよ、このままの状態が続けば、
私たちを待ち受けるのは、あまり愉快な社会ではないように思えました。
c0007388_17594977.jpg

写真はこの番組を見た後に、書店で同じタイトルに惹かれ買ったものです。
一読してみて、我が国社会を蝕んでいるこの現象を要領よくまとめてあり、
この現象の全体像を掴むには手頃な本だと思いました。
本文の前のクイズだけでも、ちょっとしたショックを受けました。

さて、今年も駄文、拙文を連ねてまいりましたが、
更新は今日にていったんお休みさせていただきます。
今年もいろいろ交流させていただきありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いいたします。
では、皆様、良い年をお迎えください(^^)
[PR]
by capricciosam | 2006-12-30 17:57 | 時の移ろい | Comments(4)

007カジノ・ロワイヤル@映画リメイク

好調なシリーズものが、途中で誕生時のエピソードに戻るのは、最近では
「スター・ウォーズ・エピソードⅠ」「バットマン・ビキンズ」にもみられる。
007シリーズも21作目にあって「原点回帰」らしい。
と、いうのも原作者のイアン・フレミングがジェームズ・ボンドをはじめて
登場させたのが「カジノ・ロワイヤル」。
これはシリーズ番外編のパロディ版としてとうの昔に映画化されていた
のは有名な話。版権の関係らしいが、結局全てソニー傘下に収まった
ことで今回のリメイク(と言ってもよいのかな)が実現したようだ。
まあ、その分vaioはじめソニー製品もよく出てくるのだが…。

今回再映画化されたものを観るに当たっては一度原作に
当たっておくのも悪くはないな、と思い読んでみた。
c0007388_229343.jpg

基本的な構造の核になるル・シッフルとの対決は活かしては
あるものの、冷戦構造でのフランス共産党員の使い込みが
現代のテロリト支援組織の使い込みに置き換えられており、
その辺はうまく時代に合致させて違和感なく観ることができる。
ストーリーもほぼ活かされていた。

<以下はネタバレ的内容です、ご注意ください>

今作は「若きジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」と
宣伝されているが、冒頭からダブル・オー資格を満たしている
ことがわかる。しかし、宣伝で言いたかったのは、真の意味
でのダブル・オーらしさを獲得するに至る、という意味なのだろう。
だからなのか、ボンドの洗練されたクールな面よりも、むしろ
直線的で、荒削りな面を強調していく。なにしろ、ボンドには欠かせない
マティーニさえもシェイクかステーかに、こだわっていない。
これ故に、起用に否定的意見のあった精悍なダニエル・クレイグの
風貌は逆にふさわしいのかもしれない。
また年齢と鍛え上げられた肉体故かアクションシーンもOKだが、
カジノの場面やヴェスパー・リンドとの感情のやりとり等の静的演技も
なかなかなものだった。特に、殺人に立ち会ったリンドがショックのあまり
着衣のまましゃがみこんでシャワーを浴びているのを見て、そばに行き、
自分も同じようにしゃがみこんで抱き寄せながら、リンドの血のついた指を
口に含んで血をとってやるシーン等は、シリーズでは異色な場面では
あったが、印象深いものだった。
男としての色気や艶にはやや欠けるものの、ラストまでボンド役としての
違和感を特に感じなかったのは彼の演技力のせいか。

それから、ヴェスパー・リンドのいわゆる「ボンド・ガール」。
ちょっと暴論かもしれないが、これまでのシリーズではほとんどが
ボンドとは「色恋」の関係にはなるのだが、決して「恋愛」には至らない
立場だったと思う。「愛」の不在、といってもよいかもしれない。
唯一「恋愛」する立場で描いてみせたのが「女王陛下の007」だった。
しかし、今回はダブルオーの立場を捨ててまで一緒になろうとしながら、
結局は、スパイものらしく一種の「裏切り」に由来する悲劇的結末に
終わるのだから、なんとも切ない。
それ故、この悲劇を乗り越えたからこそダブルオーとしての
クールさに凄みが増し、決して本気で恋愛に踏み込もうとしない
のだろう、とひとりで合点していた。
ただし、リンドの死に至る原因と方法は原作とは異なる。

またシリーズものなのに、マニー・ペニーやQは出演しない。
これは、ダブルオーとしてのプレ段階という設定だからなのだろうか。
でも、懐かしい1964年製(これはノーマル仕様)や仕掛けのある
最新型のアストン・マーチンは登場する。
しかも、その仕掛けが秘密兵器ではなく、AED(振動除細動機)。
また、原作では使い込みの原因が売春宿への投資失敗だったのが、
今作では株の暴落前の空売りの失敗。
現代への置き換えが実にうまいなぁ、と感心。

ところで、拷問のシーンはほぼ原作に忠実。たたく道具が違うだけ。
男には耐えられない「急所攻め」ということはすぐにわかる。
男が出産の痛みを共有できないのと同様、あの痛みは女性には
想像できないモノでしょう…。

また、蝶ネクタイ姿のボンドが現れ、お決まりのセリフ
「My name is BOND,JAMES BOND」を言うと、すかさず
ボンドのテーマが流れるシーンは、なんとラスト。
ここでダブルオーとしての真の意味でのボンド誕生を観る者に
強く印象づけて終わる。
まさしく「エピソードⅠ」「ビギンズ」の完成であり、シリーズにつながった訳だ。
今回の監督は私の中では評価の低い「ゴールデン・アイ」と同じだったので、
正直期待していなかった。しかし、今作は比べものにならないくらいの
上出来なのは嬉しい誤算だった。これは脚本が良いからなのかな。

次回作は2008年には公開予定らしく、引き続きD・クレイグで
撮るようだが、シリーズの特徴として段々ハデになっていって、
人間ドラマが希薄化しがちな傾向では、この人間ドラマを描いた
今作でいい味をだした彼がどのように演じていくのか、興味のあるところ。
c0007388_2224676.jpg

[PR]
by capricciosam | 2006-12-04 02:24 | 映画 | Comments(3)

ウェブ進化論@ちくま新書

今年も我が読書の歩みは遅々として進まず、です。
今頃、上半期というのも変なのですが、ここいらで一区切りつけて
「読書の秋」には、なんとしても積ん読してある山を少しでも崩さねば…。
という訳で、「いまさら上半期」の印象深い一冊を。

◆ウェブ進化論/梅田望夫著/ちくま新書

今春話題になった一冊で、依然売れているようです。
シニアの私とて今じゃネットのない生活なんてちょっと考えられないのですが、
これだけ生活に入り込んだPCやインターネットのこれまでをざっくりと
振り返りつつ、来るべきこれから(著者は「次の10年」と言う)を考えるには
格好の一冊であることは間違いないと思います。

既に多くの論評が触れているように(それどころか著者自身が書きながら
意識していた、とあとがきで書いているのですが)、楽天的過ぎやしないか、
という側面は確かにあると思います。

例えば、不特定多数の「個」の行為の集積により「全体」の価値を創出する
という領域において、ウェブ進化のイノベーションが最も過激に起こってくる、
と予想します。「不特定多数は衆愚である」として「思考停止」していては、
これから起こる新たな動きや現象の本質を見失うことになる、とも述べます。
著者が引用しているスロウィッキー仮説は「個」が分散性、多様性、独立性が
担保されていて、それら「個」の意見を集約するシステムがうまくできれば、
全体としての価値判断が正しくなる可能性がある、としているのですが、
「こちら側」で頭の固くなっているシニアの私としては、どうしても過去の歴史
を参照しがちで、「果たして、そんなに楽観的に考えても大丈夫なのかな」
と、ついつい考えてしまいます。これも「思考停止」なのかも(笑)。
でも、技術革新の進展は想像を超えるようですから、ひょっとしたら実現する
のかな、とも考えそうになることも否めません。

ところで、ウェブの進化は私などには到底想像できませんが、きっと死ぬまで
無縁では生活できないのだろうな、と直感的に感じるので、これからの展望を
知る上でも非常に興味深く、有益でした。
c0007388_0405892.jpg

[PR]
by capricciosam | 2006-09-02 23:55 | 読書 | Comments(0)

さようなら岩城宏之さん

岩城宏之さんが亡くなられました。

最近演奏会をドタキャンされた報道がありましたので、
チラっと心配になったのですが、残念な結果となりました。

その死を悼む声があちこちで上がっていますが、
経歴紹介も含めて東京や金沢中心の活躍が主で、
十年以上の長きに渡り札響正指揮者、音楽監督として
札響の発展に寄与した
ことがほとんど抜けています。
オール武満プロの定期演奏会をやったり、映画「乱」の音楽を
録音したり、と意欲的に活動していました。
私も札響を強く意識したのは岩城さんが就任してからでした。
とは言っても、このコンビでの演奏会を聞く機会は、
どういうわけかありませんでした。
現在は桂冠指揮者としてたまに定期を振っていたようですが、
ラストチャンスとなった昨年も、ちょっと逡巡しましたが、
「まだ大丈夫」だろうと高をくくってパスしたため、
永遠にその機会は失われました。
また、以前メルボルン響を率いて来道した時も祖父が死んで
行けなくなり、やむなくキャンセルしました。
(アルプス交響曲、聴きたかったなぁ。)

それでも、一回だけ実演に接したことがありました。
以前のブログでも書いたのですが、
Kitaraオープン時のOEKとの演奏会です。
この時のシチェドリン編のカルメンとアンコールは絶品でした。
打楽器のおもしろさ。
人体も打楽器になる。
打つという行為は音楽を楽しむ原点なのだな、と
改めて認識した印象深い演奏会でした。

数多くのエッセイを出されていますが、そのうちの一冊の
「オーケストラの職人たち」に岩城さんはこう書かれています。

「準備万端整うのを待っていたら何事もできないから、
 まず決行するのが、ぼくの主義である。」
c0007388_21413970.jpg

このあたりの心意気が転移したガンと戦いながらの
大晦日のベートーヴェン交響曲のフル(振る)マラソン
あたりに現れていたのでしょう。
2回で終わってしまいましたが、まだまだ挑戦してもらいたかったな、
という気持ちが残りますね。

ご冥福をお祈りいたします。
[PR]
by capricciosam | 2006-06-14 00:50 | 時の移ろい | Comments(4)

流星ワゴン@講談社文庫

ここでは3組の父子関係が時間や空間を自由に行き来
しながら、縦横に描かれていく。そこに著者はリストラ、
不倫、いじめ、ひきこもり、DVという現代的問題を
取り上げるのだが、ここまでだったらきっと類書が
あるに違いない、と考えてしまう。
ところが、著者は自分と同年齢の父や「幽霊」という
意外なキャラクターを与えて、読む者を幻惑させつつ、
術中にはめていく。頭の中で整理できた頃には
読むのを止められなくなっている、という訳だ。
そう、私もまんまと、はまってしまいました。
読後、妙にしんみりとしたのは、自分も親になった証
なのだろうか。それとも、変えることなどできない
「過去」に対して「未来」は変えられる可能性があるんだ、
という作者の示唆のなせる技なのだろうか。
重いテーマなのに妙に明るい希望を抱いてしまう、
という不思議な余韻が残るためなのだろうか。

この度文庫化されたのを契機に読んでみたが、
本文も読ませるが、解説(斎藤美奈子)も興味深かった。
母との描写を描くことで小説の厚みを得ることよりも、
むしろ父子関係に絞って物語を紡いだことで、逆に
この小説が輝いているのではないか、との指摘には
頷けるものがある。
過去にある雑誌の年間ベスト1に選出されたのは、
宜なるかな、と思う。
c0007388_2395627.jpg

[PR]
by capricciosam | 2006-04-03 23:18 | 読書 | Comments(0)