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寺よ、変われ@岩波新書

お盆ですね。
正しくは盂蘭盆会(うらぼんえ)と言うそうですが、
先祖供養の代表的仏事です。
日本国中、一斉に「仏教徒」であることに強制的に気づかされる訳で、
お墓参りされる方も多いでしょう。

先日、TVで昨今のお盆事情というのが放送されていましたが、
ネット上のお墓、僧りょ派遣会社、お墓清掃・お参り代行業etc
まあ、いろいろあるわ、あるわ…
やはり、世間事情を反映した中で多様な「お盆」が出現しているんだなぁ、
と感心しつつも、でも所詮葬式仏教の延長上のことだよなぁ、との感想しか
浮かびませんでした。

また、改めて寺とか、僧りょって、仏事や葬儀しか係わらないんだけれど、
果たして、それだけで「宗教」の役目を果たしていることになるのかな、
という常日頃の疑問が頭をもたげてきました。
そんな時、手にした本書には、正直、瞠目させられました。

著者の主張はこんな具合です。
人間の生老病死という人生のプロセスにまとわりつく「苦」を直視し、
それを滅することを使命とするのが本来の仏教の役割なのに、

「さまざまな「苦」を抱えるこんにちの日本のどこを見回してみても、
「苦」に対応する伝統仏教の姿はない。影さえ見えない。
旧態依然とした儀式を平然と続けるだけの伝統仏教からは、
「苦」へのかかわりは感じられない。」(本書p.8より引用)

と、さらりと言ってしまう。
著者は檀家制度に立脚するその伝統仏教の僧りょ、なのにだ。

続けて、こうも言います。

「この現代社会に充満する「苦」の現場に伝統仏教がかかわらないのなら、
伝統仏教の存在価値は無いに等しい。
そして、それは必然的に消滅に向かう。」
(本書p.9より引用)

序章からこんな調子なので、興味津々で読み終えました。

その中で、行動する著者の姿には、従来のステレオタイプな僧りょの姿など
かけらもありません。実に驚くべきことです。
しかし、身を置く伝統仏教の世界からは、
「おまえのやっていることは陰徳ではなく、顕徳だ、パフォーマンスだ」
と非難される始末。
その陰徳とは「庭掃除、トイレ掃除、毎日のお勤め等、人にひけらかすことなく
密かに行う善行」とのことらしく、一見もっともらしい。
でも、社会との関わりを積極的に持とうという姿勢など微塵も感じられない。

また、現状の伝統仏教の閉塞感の原因のひとつに「世襲」をあげられている。
寺に生を受けて仏教系大学に進学し、卒業後、各宗派の求める修行、研修を行い、
社会に出ることもなく、家族、檀家の待つ寺に帰り、寺の仕事に専念する。
(こりゃ、まるで我が家が檀家になっているお寺の話だよ…)
檀家の葬儀等でホトケの教えを語る訳だが、自己の経験や能力の
ちっぽけさに比べ仏教思想の巨大さよ。
まともな感性の持ち主ならそのギャップに懊悩するはずだが、
彼らの多くが取るのは懊悩せずに「思考停止」して、楽な状態となること。
つまり難しいことは考えない、言わない、やらない。
だから、思考停止した僧りょの発する言葉が、聴く者の心を打つことはない。
「なるほどなぁ~」

日本のコンビニの数、約4万。
日本の小中高校の数、約4万。
日本の寺の数は、これらの倍の約8万。
僧りょの数は約20万人。

様々な「苦」に満ちた現代社会。
寺や僧りょがその「苦」から目をそらしたり、逃げずに、
真っ正面から向き合い、行動することで、地域ひいては社会が変わる。
今こそ、寺は変わらなければならない、と著者は結ぶ。
果たして現役の僧りょがどれだけ本書を読み、行動を起こすのか、
期待したいところだ。
寺よ、変われ@岩波新書_c0007388_1251912.jpg

by capricciosam | 2009-08-15 11:53 | 読書


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