「リアルのゆくえ」展@平塚市立美術館2017

「江戸時代から徐々に招来された西洋画は、その科学的な写実技法が伝統的な
日本の絵画と大きく異なり、当時の人々に衝撃を与えました。高橋由一は
西洋の石版画と邂逅し、その迫真の描写に感動して洋画家を志しました。
彼にとって写実とは、自然や身近なものなど外界に対する清新な感動を伝える
手立てとして機能しました。さらに大正期、岸田劉生は北方ルネサンスの巨匠
たちの「クラシックの美」をめざし卓抜した描写力で写実を極めました。
それは現実を超え出る写実であり「内なる美」の表出として高く評価されています。
劉生および彼の率いる草土社は同時代の青年画家たちに大きな影響をもたらしました。
ここにおいて写実は外界の描写のみならず内面を表出する手段として機能しました。
由一と劉生の事物に対するアプローチは異なりますが、両者とも偽りのない心情を
示すため細部まで写実的に再現する必要があったことに変わりはありません。
その後、写実絵画は時代の変遷とともに、様々な役割を担いました。
また、写実という概念そのものも時代の思潮により変化をきたしました。
それは西洋由来の写実をいかに消化し己のものにするかという意識の表れ
かもしれません。今また細密描写による写実が注目されています。
本展は、移入され150 年を経た写実がどのように変化しまた変化しなかったのか、
日本独自の写実とは何かを作品により検証し、明治から現代までの絵画における
写実のゆくえを追うものです。」(平塚市美術館HPより引用)


数年前に写実を追求する野田弘志さん(以下「野田さん」という。)の存在を知り、
さらに野田さんが中心になって実施されている「存在の美学」展を鑑賞したことで、
改めて写実主義に興味を抱いていた。
「存在の美学」展で現代作家の作品に触れると、その描写力に驚嘆するばかりなのだが、
その一方で写実主義がどのような変遷を経てきたのか、どういう位置づけにあるのか
という次なる興味も湧いていた。

日本における写実の黎明期から現代に至る歴史を俯瞰できる本展が開催されている
ことを知り、会期末ぎりぎりのタイミングだったが、鑑賞できたことは幸いだった。


会場に入ると、すぐに高橋由一「鮭」と磯江毅「鮭-高橋由一へのオマージュ」が
並べられて展示されていた。磯江の作品は3年前の「存在の美学」展でも鑑賞していた
ものだが、実はその時のトークショーで野田さんが高橋由一「鮭」を指して、
全然リアリズムを感じない、(写実を意識したというよりも)たまたま
うまく描けたんだろう、というような指摘をしていた。
写実への心構えや技法が現代の写実主義作家との間には違いがあるという点を指摘した
かったのではないかと推測したのだが、高橋の作品はデティールの追求が甘く、
現代の眼では写実とはとらえにくい側面は確かにあるなと改めて思った。
一方、磯江の作品は鮭の表現がより仔細になり、鮭を古びた板に縛り付けている紐や
そののほつれがより緊張感とリアルさを増幅させて、鑑賞者の絵への感情移入を誘発する。


しかし、同様の題材を用いた作品の並列展示は、単に写実としての優劣をつけるという
ことではなく、黎明期から現代に至る日本における写実の発展を瞬時に理解させよう
という意図なのだろう。
鑑賞者の心に迫る仕掛けだったと思うし、案外、本展の肝だったようにも思う。

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「リアルのゆくえ」展の巡回予定
足利市美術館 6/17~7/30 
碧南市藤井達吉現代美術館 8/8~9/18 
姫路市立美術館 9/23~11/5 


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# by capricciosam | 2017-06-12 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

月岡芳年展@札幌芸術の森美術館2017

「幕末を越え、明治の新風を浴びながら、師・国芳譲りの豪快な歴史画、
物語絵、武者絵を得意とした。同じ場面を描いても、国芳は物語の筋を説き、
芳年は登場人物の心の内に迫る。本展は、動乱の時代に惑わされることなく、
しかし、過ぎるほどに自身をみつめて精神病を患ったという、そんな自己の表現を
真摯に追求した絵師、芳年(1839、江戸?1892、東京)を紹介する展覧会である。
質、量ともに世界屈指を誇る西井正氣の芳年コレクションから版木など約150点を
選りすぐり、最後の浮世絵師として、また近代絵画の先駆者として芳年の画業を
振り返る。」(芸術の森美術館HPより引用)

本展を鑑賞しようと思ったのは月岡芳年が歌川国芳の弟子であるということだった。
2年前に鑑賞した歌川国芳は自分の浮世絵に対する見方を変えた衝撃的なものだったが、
その弟子が活躍する頃には江戸から明治に移行したことで、弟子は最後の浮世絵師と
ならざるを得なかったという運命にも興味を惹かれた。

激動する時代に身を置く中で画業を追求した結果として見れば、芳年の境遇には
一抹の同情さえ浮かぶのだが、例えば「残酷絵」は流血も生々しく描いているだけに、
正視し難いものもあるが、師匠譲りの精緻な描写力が力感のある作品にかえている。


西井氏が解説していたが、「残酷絵」は道外で展示すると内容が内容だけに作品のうち
数点しか展示されてこなかったが、今回は落合芳幾との作品と併せ「英名二十八衆句」
全作品が展示されていた。これは北海道のあまりこだわらない気風のせいかもしれないが、
札幌芸術の森美術館の判断には敬意を表したい。

<蛇足>

西井氏曰く。版画は初刷りが高い評価を得るものだが、さらに「ふちの有無」、
「折れの有無」、「汚れの有無」、「虫食いの有無」について評価されて、
折れ、汚れ、虫食いが有る程評価は下がるということだった。
折れは、当時版画をたたんで懐等にしまって運んだことによるためだという。

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# by capricciosam | 2017-06-03 23:47 | 展覧会 | Comments(0)

札幌交響楽団第599回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】

1 シューマン ミサ・サクラ ハ短調
2 マーラー アダージェット~交響曲第5番より
3 マーラー 夕映えのなかで~無伴奏合唱のための
4 ドビュッシー 海~3つの交響的素描

シューマンの宗教曲では「レクイエム」は聴いていたが、1は初めて。
というよりもシューマンの宗教曲自体があまりなじみがない。
札響も今回が初演となる。

「シューマンは早くからルネッサンス時代やバロック時代の宗教音楽に興味を持ち
研究を重ねていたが、そうした伝統を踏まえながら、シューマン独特のロマン的な
和声をふんだんに駆使しているのが大きな特徴と言えるだろう。」
(公演パンフから引用)

この作品は全6楽章からなる約45分の大曲だが、確かに親しみやすいと感じた。
それ以上に、今回初来日したラトヴィア放送合唱団(以下「LRC」という。)の
ハーモニーの高さが第1曲「キリエ」から横溢しており、ついに飽きることなく
聞きとおすことができたのは彼らの比重が高かったと言っても過言ではないだろう。

「合唱王国ラトヴィアのトップ合唱団が初来日。ラトヴィア人にとって合唱は身近
かつ大きな存在だ。1873年から5年に1度開かれている国家行事「歌と踊りの祭典」は
1990年の東欧革命でも大きな役割を果たし、バルト三国の同様の行事のひとつとして
ユネスコ無形文化遺産に登録された。言ってみれば日本の「和食」にあたるのが
「合唱」というお国柄。当然水準は高い。その頂点が1940年創設の
「ラトヴィア放送合唱団」だ。男女12人ずつ24人からなるプロ室内合唱団で、
高度なハーモニーの純正さを保ったうえで、ときに大胆にその魂を歌い上げるような
スタイルは感動的。日本の多くの合唱ファンにも熱狂的に受け入れられるはずだ。」
(月刊「ぶらあぼ」より引用)

盛大な拍手にホリガーさんが楽譜を両手で高く掲げるのが印象的。
さらに、鳴りやまない拍手を中断してホリガーさんが英語で挨拶。
聞き取れた中では「first audience」「in Japan」とあったことから、
今回のLRC初来日での初めての聴衆となったらしい。なんと名誉なことよ。


この一曲だけでも足を運んだ価値があったというものだが、
驚きはこれだけにとどまらなかった。

2で札響とLRCが一緒にステージに登場し、LRCは着席。
まず、マーラー交響曲第5番の有名な「アダージェット」が単独で札響の弦楽パートと
ハープだけで演奏される。これだけでも十分なのだが、曲の終盤でLRCが立ち上がり、
スタンバイする。曲を終えてもホリガーさんは腕を下ろさず、引き続きホリガーさんの
指揮でLRCが3を無伴奏で歌いだす。
クリュトゥス・ゴットヴァルトが16声の合唱曲にアレンジした「夕映えのなかで」だ。
ちょうど、前回来演した時のシューベルトの「アンダンテ」と「未完成」をひとつの
作品として聴かせてくれたのと同じ趣と言ってよいだろう。


驚くべきことに、まるで楽器が鳴っているようだ。
一体どこで息継ぎしているの? 本当に発声しているの?
とても人の声とは思えぬ高度に洗練されたハーモニーが大ホールを満たし、圧倒。
鳥肌が立った。安易に使うべきではないと思うが「完璧」という言葉しか見つからない。
前代未聞の場に立ち会えた幸福感が襲ってくる。
本公演の白眉。というか、生涯に渡って忘れられないもののひとつだろう。

ブラボーが飛び、鳴りやまない盛大な拍手が続き、ついにLRCが再び登壇する事態に。
アンコールはなかったが、機会があるなら、ぜひもう一度聞きたいものだ。

4では指揮者ホリガーが絶好調。
色彩豊かなこの作品の真価に初めて触れた味わいが残った。札響も健闘。
改めてホリガーさんの才人ぶりに舌を巻く。

夜公演。7~8割の入りか。空席が実にもったいなかった。
録音はされていたが、放送用か。

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# by capricciosam | 2017-05-19 23:56 | 音楽 | Comments(0)

札幌交響楽団第598回定期演奏会@Kitara2017

【プログラム】

1 コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲
e ラヴィ・シャンカール作曲 「ラーガー・ピールー」にもとづく即興演奏
2 ホルスト 組曲「惑星」


近年評価の高まっているコルンゴルトだが、1は札響も20年以上ぶりらしい。
ハイフェッツ盤で予習していたが、作品自体が良いとこどりの寄せ集めのような感じで、
ソリストの技巧の高さを聴くような印象が強い作品だなと感じていた。
実際、ソリストのダニエル・ホープも高い技巧で圧倒していた。
拍手に応えたアンコールも何やら珍しい作品だな、と思ったら即興演奏とはね。
確かに「インプロビゼーション」とは聞きとれたけど。


2の「惑星」を生演奏で全曲を聴くのは今回が初めてだった。
札響も20年ぶり4回目とのことだから、今回は希少な機会だった訳だが、
編成も大きく、女声コーラスも必要となればやむを得ないか。


広上さんは第1曲「火星」から札響を鳴らす、鳴らす。
曲が進むにつれ、緩急強弱自在にオケをあやつり、メリハリのある演奏で
楽しくなり自然に顔がほころんでいた。

本作品は作曲当時知られていた地球以外の7つの惑星に標題をつけた組曲だが、
実を言うとCDでは「火星」から順に聴いても聴きどころの第4曲「木星」が
終わるとそれ程注目せずに聞き流すことが多かった。
しかし、今回は意外にも第5曲「土星」、第6曲「天王星」、第7曲「海王星」が
俄然興味深かった。土星の沈鬱な音の移ろい、「魔術師」と副題のついた天王星の
変化自在ぶり。中でも打楽器(首席奏者、副首席奏者ともにブラボー!)が光る。
海王星での札響合唱団女声コーラスの健闘。
やはりこれはライブの力だと思う。これだから生演奏は止められない。
終演後会場からも惜しみない拍手が送られていた。


盛大な拍手に応えて広上さんが、概ね次のような挨拶を最後にされました。

「アンコール曲はありません(笑)。札響とのつきあいは20年以上になります。
今回客演指揮者のお話をいただいた時、単なる客演ではなく友情をつけたのは
札響の活動が広く札幌に、北海道に広まっていくお手伝いをしたいという気持ちを
表したくてつけてもらいました。ここ数年札響を振っていて、世界に通用するだけの力を
つけてきていると感じています。これからも、札響をよろしくお願いいたします(拍手)。」


「友情客演指揮者」を初めて聴いた時は「?」と思いましたが、この挨拶で疑問も氷解。
広上さんには今後もぜひ継続して登場してもらいたいものです。


夜公演。8~9割の入りか。
録音していたが、放送用か。

<蛇足>
余談だが、1でソリストも引っ込み休憩に入る時に、札響のお二人のコンマスが
立ち上がって彼の持ち込んだタブレット型楽譜の画面をのぞき込んでいた。
理由はわからないが、これだけタブレットが普及してくると、
紙の楽譜が当たり前じゃない時代が迫っているんでしょうかね?

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# by capricciosam | 2017-05-13 11:27 | 音楽 | Comments(0)

「バベルの塔」展プレ・コンサートvol.2@東京都美術館

帰りの飛行機まで時間があったので、当日券で聴いてきました。
「東京・春・音楽祭2017」の演奏会のひとつで、東京都美術館で開催される
「バベルの塔」展にちなみ、作者ブリューゲルが生きていた時代の音楽を
演奏するというものです。
出演は、永田平八(リュート)、吉澤実(リコーダー)のお二人です。
リュートとリコーダーというシンプルな構成だけに、響きや音楽自体は素朴な
ものでした。アンコールには「さくら」を。
東京の桜も満開が過ぎていましたが、まだまだ見頃十分でしたね。
MCを務めた吉澤さんのお話が楽しく約1時間の間、笑いがしょっちゅう会場で
起こっていました。肩の凝らない楽しいひとときでした。

13年目を迎えた「東京・春・音楽祭」ですが、機会があれば一度じっくり聴いて
みたいものです。

【プログラム】

1 ジョスカン・デ・プレ 千々の悲しみ
2 ジョスカン・デ・プレ コオロギは良い歌い手
3 ジョスカン・デ・プレ スカラメッラは戦いに行く
4 ジョスカン・デ・プレ(ナルバエス編) 千々の悲しみ(皇帝の歌)
5 作者不詳  グリーン・スリーブス    



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# by capricciosam | 2017-05-12 23:15 | 音楽 | Comments(0)

茶碗の中の宇宙@東京国立近代美術館2017

東京国立博物館での「茶の湯」展とほぼ同時期に東京国立近代美術館で開催されて
いるのが、千利休が愛した楽茶碗を創始した楽家代々の作品が一堂に展示されて
いる本展。共通チケットを購入することで片道約30分の無料シャトルバスが利用
できたが、これは便利だった。ただし、1台でピストン運行しているようなので、
それぞれの館での発着時間が決まっている点には注意が必要。

「楽焼は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤を使用せず
手とへらだけで成形する「手捏ね」と呼ばれる方法で成形した後、
750℃ - 1,100℃で焼成した軟質施釉陶器である。
また、楽茶碗などとも呼ばれる。狭義には樂家の歴代当主が作製した作品や
樂家の手法を得た金沢の大樋焼が含まれる。 広義には同様の手法を用いて作製した
陶磁器全体を指す。千利休らの嗜好を反映した、手捏ねによるわずかな歪みと厚みの
ある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。」
(Wikipediaより引用)

会場に入ると初代長次郎が制作した「二彩獅子」が出迎えてくれる。
まるで飛びかからんばかりの、威嚇するかのような動きに満ちた激しさに
圧倒される。楽茶碗の質素な静的な佇まいとの落差には唖然としたが、
初代のそもそもの素質の一端というか、変容ぶりを認識させる手段だったのか。

すぐに展示されていく初代からの楽家の代々の作品には、初代長次郎に代表される
質素な重厚感は代々引き継がれているものの、結構自由な造形を試みていたことが
わかり、これは意外だった。伝統と創意の間での葛藤とも言えよう。
三代道入の黒楽や赤楽に色や紋様で意匠性を打ち出した作品。
九代了入の荒々しく削ることで、まるで彫刻のような効果がある作品。
十四代覚入の色やデザインを自由にした意匠性の強い作品。

そして、現在の十五代吉左衛門へと至るのだが、初代からの一連の作品を展示する場
では感じなかった十五代のアヴァンギャルドな試みは別室の「吉左衛門の世界」で
感じることになる。十四代で拡張された表現をさらに一歩も、二歩も進めた試みが
茶碗にもたらす効果には目を見張るものがある。
しかし、一方で茶碗としての実用性からは離れ、単なる展示品に向かおうとしている
のではないか、との疑問も湧いた。
あのゆがんだ形で手になじむのだろうか。口をつけて飲めるのだろうか。
また、初代の創始した黒楽茶碗に代表される主張を抑えた静謐さとは対極にあるかの
ように作品の主張が強い分、茶の湯の道具としての一体感を喪失してしまいかねない
のではないか、とも感じられた。

琳派の本阿弥光悦や尾形乾山の茶碗や俵屋宗達、尾形光琳の絵も参考出品されていたが、
やはり本阿弥光悦にはただならぬ才能の輝きが感じられる。
古くて新しい、とはまさしく光悦のためにある言葉のようだ。


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# by capricciosam | 2017-05-11 23:30 | 展覧会 | Comments(0)

特別展「茶の湯」@東京国立博物館平成館2017

普段、茶道などとは無縁な生活をしているだけに、今回の美術展は少々敷居が高い
かな、と思っていた。しかし、

「茶の湯をテーマにこれほどの名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に
東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、実に37年ぶりとなります。」
(「茶の湯展」HPより引用)

とのことで、興味が湧き足を運んでみたが、あまりの見事さに驚いた。

「12世紀頃、中国で学んだ禅僧によってもたらされた宋時代の新しい喫茶法は、
次第に禅宗寺院や武家などの日本の高貴な人々の間に浸透していきました。
彼らは中国の美術品である「唐物」を用いて茶を喫すること、また室内を飾る
ことでスティタスを示します。その後、16世紀(安土桃山時代)になると、
唐物に加えて日常に使われているもののなかから自分の好みに合った道具を
とりあわせる「佗茶」が千利休により大成されて、茶の湯は天下人から大名、
町衆へより広く普及していきました。このように、日本において茶を喫する
という行為は長井年月をかけて発展し、固有の文化にまで高められてきたのです。」
(「茶の湯展」HPより引用)


茶にまつわる数々の名品により茶の歴史を俯瞰することになったが、
いやはや壮大かつ見事なものである。質量ともに圧倒された。

中でも、昨年新たな国宝の出現かと騒がれた曜変天目茶碗は
現存する3点の国宝曜変天目茶碗の中から「稲葉天目」が出品されていた。


「元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が病に伏せる春日局に下賜した
ことから、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わった。
そのため、「稲葉天目」と呼ばれるようになった。」
(Wikipediaより引用)


見込み全体に拡がる色鮮やかな模様は画像でみた以上の衝撃だった。
黒地に浮かび上がる青みを帯びた多くの斑紋は、宇宙の神秘的な輝きを
想起させられた。

同じフロアのすぐ近くには豊臣秀次が所有していたとされる「油滴天目」も
展示されていたが、茶碗の内外に無数の斑紋が形成されてこちらも息を飲む迫力。
特に、悲運だった秀次由来ということが、なお一層の物語を立ち上がらせるのか。

侘茶を完成した千利休に関する品々も質素で素朴なものが多かったのは
ある程度想像がついたが、愛した品々のうち黒塗手桶水指と黒塗中棗をみて
自分の中の利休像には誤解があったように思った。両品とも素朴であることは
変わりないが、光沢鮮やかに磨き上げられた極上の一品は、表面的な粗野感とは
異なる内面的な美の追求をしていた千利休の姿の一端を伝えるものではないか
と思い至ったが、これは意外だった。

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# by capricciosam | 2017-04-24 23:21 | 展覧会 | Comments(0)

「マタイ受難曲」★BCJ@東京オペラシティコンサートホール2017

【プログラム】

1 J.S.バッハ マタイ受難曲

昨年バッハ・コレギウム・ジャパン(以下「BCJ」という)演奏会を聴いた後の
感想記事で、「受難曲を聴かせてもらえたら嬉しいのだが」と記したが、
あの時はあくまでも札幌で、という想定だった。
しかし、BCJの今シーズンブログラムが公表されたところ、5年ぶりに
マタイ受難曲を演奏するという、しかもマタイ受難曲が初演された日の前後で。
驚くと同時に、この機を逃すな、とばかりに急きょ東京で聴くことに決めた。


今回会場で販売されていた公式パンフレットを読んだところ、
藤原一弘氏がおおよそ次のようなことを書かれていた。


「マタイ受難曲の歌詞は、紀元1世紀の「新約聖書」、ルター派協会の讃美歌
「コラール」そしてバッハと同時代に書かれた韻文「自由詩」の3層のテクスト
から構成されている。そして、この3層の歌詞に加え、2つの合唱と2つの
オーケストラという構成が、歌詞における対話と音楽における対話という形で
マタイ受難曲が上演される度に常にイエスの受難と現在を結びつける。」


つまり、3層構造の歌詞と2群編成のオーケストラの重層構造が織りなす
豊かな表現が、約2千年前のイエスの受難があたかも現在目の前で目撃している
かのような思いを聴く者の心に抱かせるということなのだろう。
何故「マタイ受難曲」が現代においても、聴くたびに新鮮に迫ってくるのか
これまで他の解説を読んでもピンとこなかった点を鮮やかに解説しており、
目から鱗が落ちる思いがした。


当夜のBCJの声楽とオケの繊細にして劇的なアンサンブルは
鈴木さんの力強いリードの下、イエスの受難をまさまざと描き切る。絶品。
こんな完成度の高い演奏を名演と呼ばずして如何にとやせん、という気分だった。
特に声楽陣の歌声には毎度のことながら感動させられる。
ソロではエヴァンゲリストのベンヤミン・ブルンスの大ホールの隅々まで届く
明瞭にして深々とした声が圧倒的で、これまで聴いたエヴァンゲリストの中では
最高の感動を残した。有名な「憐れみたまえ、わが神よ」では第Ⅰ群のコンマス
の若松夏美さんがすくっと立ち上がって弾き、ロビン・ブレイズが
よくコントロールされた歌唱を披露したが、ヴァイオリンソロも実に素敵だった。


終演後、「マタイ受難曲は当分聴かなくても十分だ。」とつぶやいたが、
実演としては今夜の感動をしばらく抱きかかえていたい、というのは本音だ。
これは東京まで足を運んで正解だった。


会場の東京オペラシティコンサートホールで聴くのは2回目となる。
1回目は約10年前。大江健三郎氏の講演と武満徹の音楽というプログラムだった。
当時の記事はこちらです。


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# by capricciosam | 2017-04-21 00:11 | 音楽 | Comments(0)